yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

ビラ「入学式 ボイコットしませんか?」(2024年度大阪公立大学入学式)

 みなさん、大阪公立大学へのご入学おめでとうございます。私は大阪公立大の大学院に今年度から入学することになった者です。高校生・高専生・浪人生から大学生という新たなステージへと一歩を踏み出すみなさんは、きっと大学生活をどのように楽しんでいこうか、どんな勉強に取り組もうか、期待と希望で胸がいっぱいだと思います。そんな節目の記念行事として、入学式とは重要な役割を果たしています。そうしてきちんと服装を整えて大阪城ホールまでやってきたみなさんに水を差すようで非常に恐縮なのですが、私は大阪公立大の入学式へのボイコットを呼びかけています。

 なぜ自分自身も当事者である入学式をボイコットするのか。ひとえにその理由は大阪府市の維新行政に対する抗議です。大阪の政治が維新によって掌握されてすでに10年以上。確かに赤字が膨れ上がっていた財政を立て直したり、職員体制や行政組織が抜本的に変わって来たりと、「改革・成長」のもといままでおこなってきたことは一見するととても評価できることかもしれませんし、実際にその政治的手腕は並々ならぬすごいものがあります。しかしその裏には多大な犠牲や切り捨てられてきたものがあり、苦しんでいる人も大勢いるということもまた事実です。

 来年には万博が控えています。きっと今日の入学式でも吉村洋文なんかはそのことに触れないわけがないと思います。大阪のそこらじゅうにマスコットキャラクターがラッピングされ、マスメディアは万博が盛り上がるぞ、経済効果を生み出すぞと日々宣伝を続けています。しかし現実を見ると工事はろくに進んでいないし、わけのわからない木製リングやトイレ設置に何百億円も使われているし、つい先日には地下のメタンガスに引火して爆発事故まで起きました。海に隣接した人工島という立地なのにろくに災害対策も立てられていないし、跡地にはカジノ施設を建設する予定であるという話すらあります。なにより雪だるまのようにどんどん関連予算が増えていき、それは私たちの税金から出ているにもかかわらず追及に対しては知らんぷり。こんなに問題だらけの万博、本当に開催する意味があるんでしょうか?私たちが協力する必要なんてあるんでしょうか?

 そして私たち学生も無関係ではありません。近いうちに森之宮キャンパスが完成し、一部の学部や研究科がそこに移転することが計画されています。しかしこれもまた工事が延期して、依然としていつどうなるか学生も教職員もあまりわかっていません。そもそも移転計画の発端となった大阪市立大と大阪府立大の統合も二重行政の解消だとか予算削減のためだとかで維新行政から提言されたことですし、なによりキャンパス移転という行政と大学当局による一方的な重要決定事項に私たちは否応なく従わないといけないことはおかしいのではないでしょうか。先月突然の思いつきのように吉村は「大阪公立大を秋入学にする、英語を公用化する」などと言い放ち大きな混乱を呼びましたし、公立高校が3年連続で定員割れすると統廃合されるという問題もあります。教育や学問の根本的な役割や大切さを軽視して単なるお金儲けや都市開発のために利用するという態度や、大学という学内の自治が守られるべき存在に行政が介入し口を挟むということが当たり前になっている現状には、大きな疑問をいだかざるを得ません。

 また維新行政は卒業式において「君が代」斉唱に抗議するために起立しなかった教員を処分し、不起立を職務命令違反とする条例を制定しています。「日の丸」「君が代」はかつて日本が天皇制のもとアジアを侵略・支配するシンボルとして使われてきた存在であり、また現代においても日本という国家に従うことを見定める踏み絵として使われています。これを批判して拒否することすら許されなくなっているというのが、残念ながら現代の日本です。今日の入学式で国歌斉唱があるのかはわかりませんが、私はこのように思想・良心の自由が蔑ろにされていることに強い危機感と恐怖を感じています。また維新行政は被差別部落在日コリアンなどに関する展示を行っていた大阪人権博物館に対する補助金を一方的に打ち切って博物館を取り潰したり、開催こそされたものの「表現の不自由展」の会場使用許可を取り消したりしたということもありました。いずれにせよ、維新関係者の人権意識についてはいまいちど問い直さなければなりません。

 他にもまだまだ維新行政の問題は山積みです。保健所や病院の削減、公務員の減少、公園や道の街路樹の伐採、再開発による路上生活者の排除、相次ぐ議員の不祥事、あげていけばキリがありません。そのすべてが「身を切る改革」だとか「大阪の成長を止めるな」などという美辞麗句で覆い隠され、そのアピールによってよくやっているのかと漠然とした印象をもってしまいます。しかし実情を考えてみると大企業やグローバル企業といった一部のお金持ちばかり優遇することによって見かけの「成長」を押し進め、一方で非正規雇用の拡大や福祉の切り捨てによって庶民や中小企業は逼迫していくということが進んできたのが、維新政治のもたらした結果ではないでしょうか。

 現在大学生の置かれている立場は非常に厳しいものになっています。入学してすぐに就活のためのガクチカ作りやTOEIC対策に奔走し、GPAや取得単位数を気にしなければならず、自分が本当にやりたいことはなんだったのかということを忘れそうになるかもしれません。またおかしいと感じたことがあってもなかなかそれを表現する場や方法がなく、声を上げるとすぐに大学当局から厳しい対応を取られることもあるでしょう。しかし忘れてはならないのは、大学における主体とは学生であり、学生自らが意思をもって行動すべきであるということです。大学とはいままでの一方的な学校教育とは異なり、自主や自治が尊重される空間です。残念なことに権力者は平気で嘘やペテンで人を騙すし、自分たちに都合のいいことしか言いません。そうした人たちの言うことにだまって従うのではなく、常に批判的な視点を持ちつづけること。大学における学びとはそういうものではないかと思います。

 

※この活動がなんなのかと興味を持たれた方やこれから関わってみたいという方がいらっしゃれば、下記連絡先を参照してください。

・全国学生行動連絡会

メールアドレス:gakusei.koudou@gmail.com Twitter:@info_gakukou

・私個人

メールアドレス:blackcross2022@yahoo.co.jp

 


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琉球「方言禁止記者会見」に見る「普通の日本人」の植民地主義

はじめに

 「方言禁止記者会見」のCMを見たのは定食屋のテレビで、知り合いと「イヤイヤこの企画はマズいだろうよ」という話をしていた。翌日になって果たしてどんな番組なのかを判断するためにTVerで視聴すると、案の定マズい内容であった(なにがマズいかは後述)。しかしTwitterなどで調べても誰も言及していないどころか、「沖縄弁が出ちゃう二階堂ふみ可愛い」といった意見がちらほら見えたため、引用RTという形で「植民地主義的でエグい」と投稿すると、思ったより拡散されて番組が炎上したというのが今回の経緯である。

 私はこの番組自体をキャンセルしたいわけではないし、ポリコレ的配慮がなっていないと言いたいわけでもない(植民地主義とは「ポリコレ」以前の問題なので)。また番組の批判者を見ていても少し疑問に思うところもある。そういった疑問や懸念について、本稿では現在の「普通の日本人」による沖縄差別あるいは植民地主義の言説について追っていきたい。

 

 

番組の内容、「方言禁止記者会見」の何がマズいのか

 はじめに申し上げておきたいのは、決してこの番組は直接的に沖縄差別を扇動するものではないということである。批判者の多くは恐らく番組を見ずに字面で判断しているのかもしれないが、一見すると琉球の言葉や文化についてコミカルに描きながら紹介するというコンセプトになっている。番組の趣旨は「琉球の言葉で質問をしてくる人に対して二階堂ふみは標準語で返答する(琉球の言葉を使用しない)」というものであり、直球で「琉球の言葉をしゃべるな!」と押し付けるものではない。番組中では那覇の思い出の場所や琉球の食文化を紹介し、琉球の言葉はこんなに面白いものであると言わんともしている。要するに琉球の言葉をあえて使わない状況にすることで、かえって琉球の文化や言語のオリジナリティを見出すという構成になっている。

 ご存じの方が多いように、日本は独自の国土と政治体制をもった琉球王国を侵略し、琉球処分という形で植民地支配を行った。皇民化政策によって琉球の人々は天皇制支配のもとに組み込まれ、創氏改名によって「本土」の名前へと置き換えさせられ、方言札によって琉球の言葉は使用することを禁じられた。植民地支配のグロテスクさというのは単に過酷な軍事占領をして施政下に置くということだけではなく、文化や言葉や名前といった人々の根本を支えるところから自己否定させ、ひいては記憶そのものを抹消させるというところにある。そしてその過程では一方的に植民者が言いなりにさせるだけではなく、被植民者同士の相互監視と密告が行われてきた(なかば子供の遊びのように実施される方言札はそれを自己規律化してしまうという点でグロテスクなのだ)。すなわち植民地主義とは被植民者に直接的/間接的な屈辱を加えることにより文化の劣等性を身体化させ、植民者と被植民者の間の「優越/劣等」的な二項対立を規範化させるプロセスなのである。

言うまでもないが、太平洋戦争中には「本土」防衛のための捨て駒として沖縄を利用し、全島民の4分の1とも言われる民間人犠牲者を出した。民間人犠牲者は連合軍によって殺害されたのみならず、日本軍によってスパイを疑われて殺された者や集団自決を強制された者も数多く存在する。つまり沖縄は天皇イデオロギーのもとの「尊い犠牲」となることを強いられたわけであり、ここにも日本による差別と植民地主義の深刻さが見て取ることができるだろう。

戦後においては、「象徴天皇制の維持(国体護持)」と「日本の非武装化(憲法九条)」という日米政府の合意の条件として沖縄を分離軍事支配することとなり、日本人が平和国家を享受する裏で沖縄は米軍に占領されて東アジアの一大軍事拠点として利用された。これが「沖縄は米軍に売り渡された」と言われる所以である。米軍占領下では「銃剣とブルドーザー」によって強制的に沖縄の人々は土地を奪われ、批判の声は憲兵によって弾圧されてきた。また戦後は「本土」に数多くあった米軍基地は反基地運動の影響や日米関係の安定のために撤退を余儀なくされ、そのしわ寄せは「日本ではない」沖縄に押しつけられた。すなわち戦後においても、左右の日本人が一体となって「日本のために」沖縄を犠牲とすることに加担していたのである。

沖縄返還後においては、行政的には沖縄は一地方自治体として「本土」と対等な関係ということになった。また沖縄開発庁(現在の沖縄振興局)も設置され、経済格差の是正やインフラ整備といった政策的介入も行われた。沖縄は温暖で海や自然もきれい、独自のカルチャーもあるとして観光産業が盛んになり、沖縄は「本土」の人間によってブランディングされてきた。もはやこのように見ると沖縄における「本土」との諸問題は解決したかのように見えるし、むしろ問題視する人こそが沖縄を差別していると揶揄されることすらある。

しかし現実を見ると、在日米軍施設面積の7割近くが沖縄に集中しており、沖縄島の約15%の面積が米軍専用施設となっている。補助金を支払えば基地負担を押しつけても正当化されるとし、それによって米軍基地に依存せざるを得ない経済状況を作り出している。沖縄の人々の声を無視して辺野古新基地建設を強行し、抗議者を嘲笑う日本人が数多く存在する。あるいは過去の植民地支配の清算や反省のなきままに沖縄を手ごろなリゾート地として褒めそやし、日本人が奪ってきたはずの文化や言語をコンテンツとして消費する。すなわち現在起こっていることは、沖縄への経済支援や観光地化を通じて「本土」の言いなりにさせるという新植民地主義の段階なのである。

話を戻そう。先述したように、「方言禁止記者会見」は一見すると琉球の言葉を面白おかしく紹介することでむしろリスペクトを払っているとすら擁護できる内容である。しかしこれは過去から現在に至るまでの沖縄植民地支配の過程にあまりに配慮がなさすぎるのは事実である。そもそも「標準語」が正しくて方言は劣った存在であるとする言語的イデオロギーそのものが正当ではないというのは言うまでもないが、過去に日本人が琉球の文化や言葉を暴力的に奪い、戦時中には琉球の言葉を話す人をスパイと見なして殺害してきたという歴史性がありながら、その反省もなく琉球の言葉を一つの面白いコンテンツとして消費する態度はいささか虫のよすぎる話である。いくら琉球の文化や言葉を紹介するためという建前でデコレーションしようとも、現在の新植民地主義的状況に即して見ると、それを再生産する可能性のある企画であると言えるだろう。植民地主義とは植民者が自覚する以上に繊細かつ複雑な問題であり、容易に解決することは難しいからこそ禍根を残すのである(韓国や中国など過去に日本が侵略した国との歴史問題を見ると想像がつくだろう)。

そして番組出演者である二階堂や琉球の言葉に誘導する質問者もまた、こうした状況に組み込まれていることもマズい。恐らくはこの企画に問題があると感じていないか、感じていたとしても断るほどではないという価値判断をしているのだろう。これは彼/彼女らが琉球の文化にリスペクトを持っていないとか、愚かな判断をしているとか、そういった話ではない。もはやそうした価値判断能力すら日本によって奪われているということが問題なのである。

植民地主義のグロテスクさとは、被植民者に植民者の「優越/劣等」の価値判断を規範化させるということを思い出してみると、日本のみならずあらゆる植民地においてこうした過程が繰り返されている。早い話がジェームズ・クラベルの『23分間の奇跡』である。この短編小説でははじめに占領者である「あいつら」に不信や不安感を抱いていた生徒たちが、暴力や脅迫もなくすぐに自国に対して「忠誠を誓う」ことを放棄し、「間違った考え」を持たないように決心するわずか23分間の過程を描いている。文化や言葉から成立している価値判断を捨てさせることは、すぐに新しい支配者である植民者を受け入れて協力させる土壌を作り上げるために植民地主義にとって必要な過程である。すなわち植民地主義とは目に見える過酷な圧政と物理的暴力によって従わせるだけではなく、価値判断そのものを植民者の理屈へと内面化させることにより「共犯」へと仕立て上げることで、植民地支配を決定的なものに確立するのである。そうであるからこそ創氏改名や固有の言葉の抹消が企図されていたし、そうした心理的暴力こそが被植民者を制御しつつ同意を引き出すような権力関係なのだ。

このようにして考えると、恐らく出演者が「方言禁止記者会見」を問題としていないことは、既に文化的な植民地支配が完成しているということを表している。Twitterの反応でも「沖縄出身だがなにが問題なのか分からない」といった意見も見られた。これはもはや植民者が被植民者の言葉をコンテンツとして扱うことの暴力性にすら自覚することができないという状況を端的に表しており、植民者の価値判断に完全に染まりきっているのである。このように争点が完全に隠蔽されることによって当事者すらもその問題の所在に気がつかなくなり、現状に対する不満を抑制して紛争自体を消滅させる権力を「三次元的権力」と言う。いわばまさに、現在進行形で琉球の文化や言語が蹂躙される段階を越えて単なるネタにされているにもかかわらず、その問題にすら気づくことができない状況そのものを示している。これは琉球の人々が悪いだとかアイデンティティを喪失しているだとかいった話ではなく、植民者である日本が100年以上にわたって沖縄の植民地支配を継続してきた「成果」なのである。

そうであるから、番組の批判者がよく「方言札」のようだと言っているが、これは半分は正しいが半分は間違いである。方言札は植民地化の過程において価値判断を植民者に合わせていくために文化的・言語的・身体的に行われる制度であり、自発的隷従をうながすプロセスである。しかし「方言禁止記者会見」はもはやそういった程度をはるかに超越していて、すでに琉球の植民地支配を完了したのちに、日本が「主君」であることを再確認するためにあえて行われるごっこ遊びなのだ。そこでは琉球の文化や言語は日本の「箱庭」のなかでしか許可されないことを意味しており、だからこそバラエティ企画として成立する。「沖縄弁が出ちゃう二階堂ふみ可愛い」というのは、琉球を文化的劣等として位置づけたうえでそこに自覚することすらできない「普通の日本人」から発せられる言葉なのだ。植民地である琉球からの抵抗や抗議がないであろうことを見越した圧倒的な権力勾配のうえに「方言禁止記者会見」は成り立っているのだから、「方言札」よりもいっそうグロテスクなのである。

ここまで琉球に対する植民地主義がいかなるものかということを振り返ってきた。「方言禁止記者会見」の番組企画だけがマズいのではなく、もはやそのような番組がバラエティとして成立し、ろくに批判すらされないというこの状況こそがマズいのである。Twitterの引用RTなどでは「自分はそうは思わない」だとか「こういう人がテレビをつまらなくしている」だとか言われるが、これは恐らくネトウヨではなく「普通の日本人」の率直な感想であろう。「普通の日本人」は琉球のカルチャーを差別することはないだろうし、なんなら観光地として好きですらあると思う。しかしそこにはもはや日本人の植民地主義にすら無意識になってしまう権力関係の積み重ねがあり、また琉球の人もそこに気づくことができないという恐るべき状況にある。これは「普通の日本人」こそが自覚的にならざるを得ない。ということを、私はTwitterで言いたかったのだった。

 

追記(2024/01/21 12:40)

予想以上に多くの反応をいただいており、正直驚いてはいる。一方でその反応については予想を大きく裏切るものはなく、おおむねこういうものだろうなというものがほとんである。しかしそのなかでも応答しておくべきだと思うものがあるので、補足しておきたい。

まずは「沖縄の当事者が不在で話が進んでいる」というものだ。これは正しい。私はこの番組について沖縄にルーツのある人にどう思うかなどと尋ねていないし、また植民地支配についてそこまで深く込み入った話をしたことはほとんどない(植民者である日本人の側からそのような話をすること自体が権力的かつマイクロアグレッション的であり、なによりグロテスクだからだ)。

確かにこの番組についてそこまで目くじらを立てる沖縄の人はそこまで多くないかもしれないし、むしろ笑ってもらえる内容なのかもしれない。しかしこの番組の問題は当事者性ではなく、「普通の日本人」が内なる植民地主義に無自覚であることだ。恐らくテレビ番組として放映されている以上多くの人がプロジェクトに関わっているだろうし、出演者にも打ち合わせのうえコンセンサスを形成して撮影されているだろう。そこには日本人の側の圧倒的な権力が内包されているにもかかわらず、誰もそれに気づくことができないのである。すでにそこに「完成された植民地主義」が存在し、不可視なものとなっているこの状況こそが問題なのだ。つまり私は「沖縄の人が可哀そうだ」とか「番組が琉球の文化や言語を差別している」と言いたいわけではなく、この番組が「普通の日本人」によってバラエティとして成立していること自体が植民地主義を再生産していることを問題としている。

また「こういう人がむしろ沖縄を差別している」というものもある。このように言う人は「日本人と沖縄の人は対等な関係にあるのだから、そこを問題視する人こそが対等な関係性を損ねている」と言いたいのだろう。このような事例は反-反差別の文脈で往々にして用いられる論法であり、性的なイラストが公共空間に掲示されることへの抗議に対して「こういう人こそがエロい目で見ている」だとか、Black Lives Matter運動に対して「いやいやAll Lives Matterだろう」だとかいったコメントはテンプレのごとく量産されている。

しかし強調しておきたいのが、日本人と沖縄の人はいまは対等な関係にはないという事実である。たかだか150年前に日本が琉球処分によって侵略してから、一度とて対等な関係性になったことはない。そうでなくてはここまで沖縄に米軍基地の押し付けや自衛隊施設の拡大は起きないだろうし(そしてそれは中国への防衛のためという論理で正当化される)、「本土」との賃金や雇用の格差は依然として残り続けているし、なにより「普通の日本人」は沖縄のそういった問題について無関心である。たとえば2022年に宮崎県警の警察官がバイクに乗っていた少年を暴走族と誤認して警棒で殴り失明させ、抗議として少年らが沖縄警察署を襲撃した事件で、どれほど多くの日本人が沖縄に対して冷ややかな反応を向けただろうか。あるいは2016年に高江ヘリパット建設に抗議する市民に向けて大阪府警の機動隊員が「土人」と恫喝する差別発言をしたことについて、むしろ日本人の側から賞賛する声すらあったこともある。つまり「普通の日本人」は自分たちに都合のいいときだけ「日本と沖縄は対等」とうそぶき、一方で少しでも問題が生じるとそこから目を逸らすというダブルスタンダードを繰り返しているのである。

繰り返すようだが、私は日本と沖縄が対等な関係になることを望んでおり、また現在の状況のままでいいとは思っていない。だからこそ「普通の日本人」の自覚なき植民地主義について問題提起を行い、「方言禁止記者会見」のマズさについて言及しているわけである。「寝た子を起こすな」とは権力勾配の上に位置するものが決して言ってはならない言葉なのだ。

過去と未来の狭間のだめライフ──「不真面目さ」で社会に亀裂を入れる

※こちらの文章は「人民新聞」に掲載されたものの初稿です。

 

 2023年は「だめライフ」の年であった。4月ごろからSNSを軸に群発的に現れた「だめライフ愛好会」は瞬く間に日本各地へと伝播し、11月現在その数は50団体を越えている。主に大学名を冠した「だめライフ愛好会」が多いものの、地域や高校規模の単位でも散見することができる。もはや「だめライフ」の全体像を掴むことは何者にも不可能ではあるが、果たしてこの怪しくありつつもどこかマヌケなブームとはなんなのだろうか。

 ブームの立役者である「中央大学だめライフ愛好会」によると、活動目的とは単純明快に「“だめ”に生きればそれでいい」だけである。すなわち“良く”生きるために頑張らなければ自動的に「だめライフ」の完成である。このような簡単な活動スタイルを実現するためには何をしたらいいのか、あるいは何をしなければいいのかという発想力のもと、「だめがだめでいられる場所」を基本的理念として様々な展開を見せている。大学構内に勝手に畑を作る者、路上飲みや路上鍋を開催し続ける者、スペースを借りてトークイベントを開催する者、特に外には出ずにSNSを更新し続ける者、などなど。

 具体例に示したように、如何に「だめ」でいられるかという思想と実践は一様ではないのだが、「だめライフ」とはかつての「だめ連」や「法政の貧乏くささを守る会」からインスパイアを受けたものであることを考えるとヒントを得ることはできる。これらの新奇性は従来の「真面目な」運動とは一線を画し、社会から逸脱した人間や諸々の理由から生きづらさを抱える人のライフスタイルに焦点を当てた、緩やかな脱国家的・脱資本主義的な運動という性質にあった。そうであるならば「だめライフ」もまた、過度な競争主義や自己責任論が蔓延し、資本主義に従順に適合した労働力商品とならなければならないという観念に染まった現代社会に対して、なるべく働かないし消費もしないというスローでオルタナティブな生き方があるということを人々に提示する運動であると言えるだろう。すなわち「失われた30年」とも言われる、どう足掻いても希望の持つことができない日本社会に対する諦めが根底に存在し、そこのアンチテーゼとして敢えて「だめ」さを前面に押し出している。残されたパイをめぐってより過酷な争いに身を投じるのではなく、そこから一抜けして自分たちの領域、つまり「だめがだめでいられる場所」を広げていくことで、人々はより自由・自律的な生き方が可能となるのである。

 現代社会においては、結婚や子育てといったライフステージを着実にクリアし、なにも文句を言わずに定年まで働きつづけ、お上が言うことに唯々諾々と従わなければ「だめ」とされる。「だめ」な人間は社会から排除されると脅され、誰しもが生きづらさを感じているにもかかわらず、そこに反旗を翻すことは許されない。その歪んだ社会を維持し続けている結果が、精神を病んで自殺に追い込まれたり、不満のはけ口としてハラスメント行為に及んだり、他者に危害を加える犯罪に走ったりする人々が後を絶たない現状である。ならばもう開き直って「だめ」でいることに誇りをもった方が、より人間らしい生き方ができるのではないだろうか。

 このように考えると、国家権力やグローバル資本といった抑圧者に対して闘う姿勢をもつことも、まずは自分たちの暮らしを守るためになにもせず寝そべることも、どちらも両義的に「だめライフ」であると言うことができる。我々はただ「だめがだめでいられる場所」にいたいだけであるにもかかわらず、大いなる反発や弾圧を招くことになっている。大学内の畑は話し合いもなく大学当局によって一方的に封鎖され、安心・安全あるいは迷惑行為防止を騙って公共空間におけるあらゆる営為は規制され、再開発や都市のクリーン化によってあらゆる人やモノが渾然一体となっていた猥雑な街は消滅していきつつある。もはや「だめ」に生きるだけでさえ許されない時代状況であるならば、必然的にそれらと闘わなければならないときも時には存在する。それは街頭に立ちデモや抗議行動に参加することでもあるし、好き勝手に耕作やトークイベントを通じて交流の輪を広げることでもあるし、あらゆる既存の秩序を拒否して家に閉じこもることでもある。そういった多様性をお互いに承認し、協同して徐々にこの現代社会にズレや亀裂を生じさせていく試みとして「だめライフ」の意義が存在する。

 とはいえ、現状では生活や時間にある程度の余裕がある学生や若者によるものであるという側面は否定できない。また、首都圏や関西圏といった人的・経済的・文化的資本に恵まれた地盤においてしかあまり活発に動けないという現状もある。過酷なワーキングプアに苦しむ労働者や、学生運動カウンターカルチャー的な土壌のない地方の学生にとっては、どこか遠くて触れづらい雰囲気をまとっていることは「だめライフ」の課題であると言えよう。そういったある種の特権性には自覚的でありつつ、全国規模に広がるネットワークという特徴を生かした交流活動や、反貧困運動や野宿者運動といった生活に焦点を当てた運動との連帯を模索しながら、「だめ」に生きることのできる人が少しでも増えるような社会へと変革していきたい。

「だめライフ」概論

※こちらの文章は「アナキズム」紙に掲載されたものの初稿です。

 

 ここ半年ほど、SNSを中心に「だめライフ」を名乗る団体や個人が全国規模で増え続けている。その数は現在40以上にもなり、大学や地域における「だめライフ」のサークルを作って仲間を集め、SNSで日々活動内容や思うところを自由に発信している。ブームの発端は「中央大学だめライフ愛好会」がアカウントを作成したことにあり、彼が「だめライフ」として提唱するライフスタイルや活動方針に賛同した者たちによる「だめライフ」の独自解釈で続々と拡大しているようだ。キャンパス内の空き地に勝手耕作をする、フリーマーケットを開催する、キャンパス内や「トー横」「グリ下」で路上飲み会を開くといった一見すると非政治的な活動がメインではあるが、系譜としては首都圏や関西をはじめとしたノンセクト系の運動に位置づけられる。

 特に統一された思想や方針、あるいは綱領などがあるわけでもなく、各々が好き勝手に「だめライフ」を名乗っているので全体像として総括することは不可能に近いのだが、一点共通項があるとしたら「だめがだめでいられる場所」をコンセプトとしていることにある。「だめ」とはシンプルでありながら重層的な意味をもつ言葉であるため人それぞれの解釈に分かれるだろうが、さしあたりここでは「だめ連宣言!」における「家族・学校・会社・社会・国家から「だめなヤツ」と言われる可能性のある事柄一般の総称」の定義に則っておきたい。新自由主義やグローバリゼーションを受けて末期資本主義にあるとも言われる現代において、ますます雇用や生活は流動化・劣悪化する一方で、社会から「だめ」な人間を包摂するほどの余裕がなくなり、人々は先の見えない不安定な状況に身を投じることになる。「だめライフ」の中核にある大学生は少なからずその状況を肌感覚で察知しており、「だめなヤツ」になれば野たれ死ぬぞ、ウダツがあがらないぞという観念を小さいころから植え付けられている。一方で日々強まりつつあるそのような社会的圧力に適合することができずに「脱落」するものも少なからずおり、その大多数は社会的ネットワークに接続できずに孤立することを余儀なくされている。そこであえて「だめ」さを肯定するコミュニティを築き、脱資本主義でオルタナティブな生活を目指す一種のセーフティーネットとしての「だめライフ」が出現したことは決して特殊なことではないだろう。

とりわけて、かつての「だめ連」「法政の貧乏くささを守る会」の影響を受けており、神長恒一氏や松本哉氏らと交流をもつイベントも企画されている。当時とは時代状況は異なるものの、ただでさえ未来に希望が見出せない「失われた30年」の閉塞的な状況にプラスして、2020年以降のコロナ禍による管理社会の強化と学生文化の断絶・消滅という局面において、「だめ」とされる生き方や言動に焦点を当てて抵抗する運動が独自にリバイバルすることは社会情勢に要請されているとも言える。あるいは、競争社会化と寡占が著しい中国において発生した長時間労働の拒否と低消費な暮らしを志向することで資本家による搾取に抵抗する「躺平主義(寝そべり族)」の広がりや、アメリカにおいて「Unemployment for all, not just the rich! (金持ちだけではなくすべての人に失業を!)」のスローガンのもと多くの余暇を得て人間らしい暮らしをするために長時間労働や大量消費社会を拒否する「Antiwork」ムーブメントが巻き起こっていることを考えると、「だめライフ」はグローバルに広がる反労働運動の潮流の一つに位置づけることも可能である。

このように労働の忌避や「怠ける権利」によって「だめ」さを肯定するほかに、かつてのように再び公共空間に回帰していることも特徴として考えられる。多くの大学キャンパスは既に学生の手によって自由や自律を獲得できる空間ではなくなっていたが、コロナ禍による大学封鎖は更にそれを加速させた。一方でコロナ禍では飲食店が休業したことにより「路上飲み」が人口に膾炙したが、渋谷区をはじめとしてそれは既に社会問題化され、規制するべき行為として行政に扱われている。そこでゼロ年代を中心にストリートを取り戻す運動が盛り上がったように、コロナ感染対策やSDGs、あるいは都市再開発を騙って公共空間が縮小し、消費空間化しつつある現在の状況に対して直接的・間接的に抵抗するための取り組みが求められている。「だめライフ」各位はこのことが「だめがだめでいられる場所」を守ることであると直感しているため、時代錯誤的であると思われようとも路上鍋やキャンパス内バーベキューによって公共空間に再び人々が根付くための活動を繰り広げているのである(時として弾圧を受けることもある)。

最後にアナーキズムとの関連に触れておきたい。ここまで述べてきたことはボブ・ブラックが労働を廃絶して「ばかの革命(ludic revolution)」を提唱したことや、ハキム・ベイが権力の管理から免れた「一時的自律ゾーン(TAZ)」の可能性を示したことに結び付けられるように、「ポスト=レフト・アナーキズム」な思想に置いて考えることができる。これは快楽主義、個人主義ユートピア主義的であり批判されるべき点は多いのだが、「だめがだめでいられる場所」というライフスタイルに根差した創造力によってアナーキーを実現する可能性に近づいていると考えることもできよう。「だめ」な個人が解放されること無しには相互扶助的なコミュニティや自発的協力関係を築くことは不可能であるとするならば、「だめライフ」はまずは個人とその周辺にある範疇から社会変革へとアプローチするための運動であると位置づけられる。これからの趨勢を見守っていきたい。

なぜだめライフなのに「反戦と生活のための路上鍋」なのかという対話

〇人物紹介

やくーと(以下「Я」と表記):本稿の筆者。立命館大学だめライフ愛好会の一人。4回生。

A:立命館大学の学生。とある公認学術系サークルに所属している。4回生。

 

〇なぜ路上鍋を行うのか?

A:来週の月曜日にキャンパス内の広場で「反戦鍋」をやるらしいね。Twitterで見ました。

Я:やります。以前から立命だめラとしてなにか企画をやるべきだと考えていたし。

A:引用RTでも「なぜ鍋をやるんですか?」と端的に聞かれていたけど、どうして鍋なの。別に他に催しのやりようはいくらでもあったのでは、たとえば中大だめライフのようにフリーマーケットとか、もしくは真面目に反戦集会とか。

Я:最近寒くなってきたのでみんなで鍋で温まりたいから。それ以外に理由がありますか。

A:そうですね。

Я:こんな投げやりな言い方にしたら元も子もないんだけど、本当にそうなんです。寒けりゃみんなで鍋を囲んで暖を取る。こんな当たり前のことさえ、果たしていまの大学のキャンパスという空間で実現可能なのかというある種の試みです。

A:中央大では定期的に路上鍋をやってるし、東海大ではカレーを作ってるみたいですね。東大は言わずもがな。

Я:そう、本来であればキャンパスという公共性の高い空間では、著しく危険だったり他者に迷惑をかけたりする行為でなければなにをやってもいいはず。でも東大では以前にそれほど人の邪魔にならないスペースでバーベキューをやっていただけで学生支援課に止められていましたよね。それを受けて「大学はバーベキューをやるべき空間ではない」とか「火を使うのは危険だ」といった批判意見がTwitterで見られたけど、なぜそのように考えるかということの根本的原因を探るべきです。なぜだと思います。

A:やはり大学は勉強をするための施設であって、バーベキューをやりたければ公園なりキャンプ場なりに行くべきだと考えているからですよね。そして火の不始末があっては危ないでしょう。

Я:ではなぜ公園、特にバーベキューが許可されたスペースだと思いますが、そこなら良くて大学のキャンパスでは許可されないんでしょう。肉や野菜を焼いて食ったり、あるいはカセットコンロで鍋をやったりするぐらいのことに、なぜ他人の許可が必要なんでしょうか。

A:公共空間はみんなのものであって、その公共空間には大学当局や公園事務所といった管理者がいるのだから、そこに許可を取ることにそれほど矛盾を感じないのでは。みんなのための空間を使うのだから、そこを管理している人の許可がなしになにをやってもいいというわけではないでしょう。

Я:そこなんです。いま管理者というワードが出ましたよね。公共性というものは利用する人各々の取り組みによって担保されるべきであるはずで、ボトムアップに支えられるはずのものなんです。管理者とはそういう人たちから委託を受けて選ばれた人であって、その土地の所有者ではない。本来は公共空間の管理者というのは、民主的に選ばれた代表者でなければならない。それが現代では、管理者が公共性を上から利用者に与えることによって保たれているという、一種の権力勾配が生まれていることが当たり前になっている。それって本当に公共なんですか、という話です。

A:それは日本の公共、西洋から輸入された"Public"という概念の和訳なわけですけど、それが本当に存在し得るかという話に結び付いてくるのでは。「公共」とは「個」や「私」に対置される言葉であり、社会全体で公共空間を共同所有することで「個」や「私」の利益が実現することができるということですよね。それが日本では、公共性や公共空間というのは「お上から与えられたもの」ぐらいの感覚で取り扱われている。それでは"Public"はいつまで経っても実現されない。

Я:やはりそこが問題であると考えています。繰り返すようですが、公共性とはそれを利用するそれぞれの個人の取り組みによって承認されるものであって、特定の管理者による裁量で決められてはいけないんです。それはもはや私有された空間と変わらないでしょう。それが大学のキャンパスや公園と、キャンプ場の大きな違いです。まあ、こんな議論は20年以上からストリートの実践のなかで取り組まれてきた話なんですけど。

A:うーん、とはいえ火を使うのはちょっと危険な気もするなあ。もし火事になったらどうするんです。

Я:じゃあ逆に聞くけど、バーベキューやカセットコンロで火事になった例がいくつありますか。これはめちゃくちゃレアケースで、たまにニュースになるかならないかぐらいのものでしょう。ですから、「火事の危険性」なんていうのはそれを止めさせるための口実でしかないんです。「やるなら防火対策はしとけよ」ぐらいならわかるんですが、「だからダメだ!」ってなるのはちょっと論理が飛躍してますよね。

A:こういうことは結構色んなところで見られますよね。たとえば吉田寮が耐震性を理由に当局からの廃寮攻撃に遭っていたり、蚊取り線香をしているホームレスに対して火事の危険ということを理由に排除がなされたり。

Я:公衆衛生とか公共の福祉の名目で、人間がなんらかによって管理されることが常態化している。まさしくこれってフーコーのいうところの生権力ですよね。特に社会全体がネオリベ化するなかでより一層強まっていることは色んな人が指摘しているところであって、現代においては生権力によって支配される領域がどんどん広がっている。この最前線にあるのが、やはり大学改革だとかガバナンス改革だとかネオリベの理屈に振り回されている、大学のキャンパスという空間なのではないかと思います。ネオリベが公共空間を縮小させてきたことを考えると、まあ当然の帰結ではありますね。これもまた、さんざん擦られた議論だけど。

A:毛利嘉孝の本でも読んでおけって感じですね。中大とかでもそうだけど、なんでだめライフのみなさんは公共性に回帰することが好きなんですか。別に一人でだめライフを送りたければ、家から出ずに布団の中から蜂起しててもいいじゃないですか。生存は抵抗なんだから。

Я:やはりネオリベに染まりきった現代の価値観ではカネにならない公共性なんて知らねーよ、それよりも稼いで勝ち組になれよという観念に支配されていると思うけど、これって全然だめライフじゃないどころか、もはや敵じゃないですか。そういう規範意識なんて一抜けた、こっちは好きにやらせてもらうもんねというのがだめライフの立場なので、そうなると「だめがだめでいられる」ためには公共性を回復しなければ居場所がなくなってしまう。なんでもかんでも消費主義、合理主義の理屈では「だめ」な人間なんて許されないし、公共空間でカネも使わずにダラダラしてることなんてもってのほか。だめライフはそんなくだらない生き方はしたくないというスタイルなので。

A:確かに「だめ」でいるためには、競争主義の外にある空間にいなければならない。それは公共空間で鍋をするとかデモや集会をするとかいう物理的領域の話だけではなく、観念的な領域においても同様にネオリベ的な価値観から脱却しないといけないはずです。競争主義社会に疲れて挫折してしまう人は結構いると思うけど、そういう人って自分を責めてしまって病んで自殺をしたり、どうしようもなくなって犯罪に手を染めたりしてしまうわけで、やはりこれは健全ではない。そこで「だめがだめでいられる」という開き直りのライフスタイルがあるんだということを提示することで、ある種のアジールを作ることができそうですね。

Я:ですから、公共空間にわざわざ集まるのは、路上鍋によって私たちの公共性を物理的に取り戻すんだという取り組みでもありながら、「だめがだめでいられる」ためにネオリベ的な価値観なんて抜けてしまおうという実存的な試みでもあるわけです。そしてなにより、路上鍋でも路上飲みでも、公共空間でなにかするということは通りすがりの人と一緒に飲み食いして交流することができるという開かれた行為ですよね。やっぱり閉鎖的になってはエコーチェンバー化してしまうだけなので、いろんな人と関わることができるほうがいい。そういうところもあってこういうことを企画しているし、実際にやってきた人も多く存在するんだと思います。

 

〇「反戦と生活のため」はなぜか?

A:ここまで路上鍋を実施することの意義について考えてきたけど、それならただの路上鍋でいいじゃないですか。なんで名前が「反戦と生活のための路上鍋」なんですか。正直言ってサヨク臭さが隠せていないですよ。

Я:まずはじめに言っておきたいんだけど、これの元ネタは関西で2005~2011年ごろにかけてデモや抗議行動をやっていた「反戦と生活のための表現解放行動」というグループから取っているということです。正直これがどういう系譜にあって、どういう人たちがやっていたのかはあんまり知らないんだけど、まあ2000年代に入ってサウンドデモというのが活発になった時期があったんですね。そしてサウンドデモがプロテストする対象とは、原則的に「戦争反対」と「路上解放」だったんです。私はこういう理念に強く同意しているので、「反戦生活」を使うことにしました。

A:なるほど、確かにこのへんは「だめ連」「法政の貧乏くささを守る会」「素人の乱」の系譜から位置づけられる運動ではあるね。そうすると一応は、そのへんから影響を受けた(と中央大だめラが言っている)だめライフの活動にも結び付いてくるものではあるのか。

Я:色んな考えの人がいるからだめライフとして全体像を語ることはほぼ不可能なんだけど、まあだめライフ左派としてはこういう運動に結び付けておきたかったんですよね。てかゆくゆくはみんなこういう方向性に行くべきだと思ってるし、全国のだめライフ愛好家が集結してだめライフデモとか一発やった方がいいんじゃないかと思っています。

A:そんなこと言ってたらノンセクト活動家のポジショントークとか言ってまたバカにされますよ。でも、完全にノンポリの路上鍋よりかはなんらかの主張があった方が来る人にとっても分かりやすいのではないかとは思いますね。

Я:前の対談の後半でも言ってるんだけど、だめライフという運動は「ポスト=レフト・アナーキズム」に位置づけられると思っている。つまりあまり真面目な左翼チックなことをやるのではなく、どうせやるなら楽しいことにしようぜという立場なんですね。もちろん自分は真面目な左翼の集会やデモにも参加するし、その必要性はよく理解しているつもりなんだけど、だめライフという枠組みでやるならば鍋を囲んでみんなで交流するような集会にしようと。

A:でもやっぱり、それってだめライフの文脈でやる必要が本当にあるんですかね。別にだめライフと名乗らなくても、既存の左翼運動の枠組みでやればいいんじゃないですか。なんだか加入戦術みたいですよ。

Я:中大だめラとかはちょっと左翼運動から距離を取りたがっているみたいなんだけど、やっぱりだめライフの系譜を考えるとそこに位置づけざるを得ないと思うんです。さっきも確認したように「だめ連」や「素人の乱」の影響を強く受けているということもそうなんだけど、やはり「だめがだめでいられる」ためには個人の頑張りでは限界がありますよね。「じゃあ俺は好きにやらせてもらうから」だと「そうですか」で終わっちゃうけど、「こういう訳わかんないやつが増殖していますよ」だと影響力を持つようになる。これが中国の寝そべり族の基本的な発想であって、やはりこれはムーブメントでなければならない。そして『寝そべり主義者宣言』第四章「寝そべり主義者の盟友」で「既存の秩序に対する大いなる拒絶を実現するには、個人主義ではない繋がりが肝心なのだ」ともあります。そのなかで盟友として挙げられている具体例として「保守的な秩序ではなく急進的な変革を主張する理論家と活動家」があるように、やはりだめライフは「ポスト=レフト」でありながらも、既存左翼の盟友としてやれることをやるべきだと思っています。

A:いつものノンセクトの仲間で企画するのもいいけど、あえてだめライフの枠組みでやることに意義があるということですね。確かにこの前の「高円寺番外地」イベント最終日の「全部に反対デモ」でも、インボイスいらねえとか入管の暴力やめろとかそういう主張もしていたみたいだし、結局は左翼運動の傍流に位置づけることができると。

Я:そしてだめライフがライフスタイル的な運動であるから「生活」の方はそれほど違和感はないと思うんだけど、やっぱり自分として押し出したいのは「反戦」ですね。2022年に始まったウクライナ戦争はまだ集結する目処は全然立っていないし、いままさにガザ地区イスラエルによって侵攻されようとしている。日本は日本で、原発汚染水をめぐって中国など周辺諸国と関係が悪化している。いまが第三次世界大戦の危機という人たちもいるけど、これはあながち間違いではないと思っています。

A:ウクライナ情勢やパレスチナ情勢をめぐって、日本でも反戦運動が最近激化していますね。でもさすがに「ポスト=レフト」なだめライフであっても、真面目に反戦集会などに行くべきなんじゃないですか。戦争情勢では「だめがだめでいられる」とか言ってられないですし、いまこそ闘わないといけないですよ。

Я:まあ一側面としてはそうだと思うし、国内外で反戦運動をしている人たちはすごく大切なことをしていると思う。「だめがだめでいられる」ためにはあらゆる戦争を拒絶しなければならない。戦争は私たちのことなんて聞いてくれやしないからね。でも考えてみれば戦争というのは国家が起こすもので、民衆はその国家の理屈に巻き込まれて戦争に駆り出されたり、もしくは好戦的なムードになったりするでしょう。そのためにはそもそも戦争を拒絶するという態度を取り続けなければいけないということもあるんだけど、草の根から民衆が連帯する必要がありますよね。その根幹を本当に支えるのは、まずは身近な人と交流をすることだと思うんです。ですから「反戦鍋」をやりたいんです。

A:ライフスタイルに焦点を当てているだめライフという運動であるからこそ、そのライフスタイルが破壊される戦争に反対すると。確かに集会やデモ、大使館への抗議行動といった直接行動によって反戦を訴えることも大事なんだけど、もっと身近な人と戦争反対の思いを共にすることから反戦運動は始まるということですね。

Я:昨日一緒に鍋をつついた仲間を殺すことなんてできないでしょう。そういう本当に手の届く、半径2メートルくらいからの交流こそが戦争を抑止するために必要だと思うんですね。そしてそういう取り組みは私たちだけに限らず、色んなところで起こるとなおさら良い。特に立命館は留学生も多いので、国籍や人種やジェンダーを問わず、色んな立場の人が来てくれて交流することができたらと思っています。たとえば日本と中国で政府同士が仲悪くても、人民同士で連帯することは絶対に可能だし、なんならそれが必要なわけですから。

A:「だめがだめでいられる」ためには人々の交流を通じて虚心坦懐に話し合うことで、お互いに憎しみあうことを避けなければならない。そしてそのことが戦争を抑止することにつながるのだということですね。では最後に、どういう「反戦鍋」にしたいと思っていますか。

Я:ヴィーガン対応にしているのは、やはり幅広く人に来てもらいたいからです。肉か魚を入れた鍋も用意するかもしれないけど、一つはヴィーガンの人が食べられるようにすることで、そこから排除されることを防ぐ。またムスリムの人も来れるように、豚肉は使わないつもりです。誰も排除されることなく、みんなが集まれるような鍋会にしたいと思っています。もちろん趣旨に合っている内容であればプラカードなどを置くのも大歓迎ですし、自分もFREE PALESTINEのプラカードを作ろうと思っています。まずはこのように戦争の危機が叫ばれている時代だからこそ、人民同士の草の根からの結びつきが大切です。圧倒的に多くの人民の結集を呼びかけます、と言いたいところですが、家庭用の鍋2つくらいしか用意してないのであんまり多く人が来たら食べられないかもしれないですね…。ありがとうございました。