yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

地下鉄に乗れなくなった

城ヶ崎美嘉になりました。




私はこの上なく下賤な人間であります。そんなこと分かりきってるよチミ、早く次の話題に移りたまえよと思った諸君、なんてものも一人とて存在しないことは重々承知しています。いい加減所謂ブログとやらを消したいです。踊ってない夜を知らない人とかこの世に一人もございません。


視界に軽蔑という名の包丁が見え隠れしていて、これはきっと私の喉の奥深くまで刺しこまれるために見えているものに違いありません。喉仏がそのままコロリと出てきてしまうのって、ある種のチャップリン的な喜劇だなあと思ったりしませんか。DMMで“喉仏”で検索したらそこそこエグいイラマチオ動画が出てきます。軽蔑包丁はなにもしなくても的確に喉を刳りにくる性質を持っているはずなので、気づけば寝室でAnotherに出てきた生徒の前で自殺した担任教師と同じく、失敗作のマーライオンみたいに鮮血を撒き散らしながらキーボードに向き合う羽目になることでしょう。京都市内で何者かに頸動脈を刺されて死亡した無職のニュースが流れたらそれは私の自殺だと思って下さい。勝手に喉に刺さる包丁なんて実在するはずがありません。


このページにたどり着く人間は間違えてリンクを踏んだ人間か、とりあえず付き合いで流し読みしているようなTwitterから飛んだ人間くらいしかいないのです。ここまでの内容を要約出来るほど読んでくれた人間が如何ほどいるでしょうか。もしそれが可能な人間がいるなら、早急に私と共に死ぬべきです。選民思想といったものが血反吐が出るほど大嫌いなので、人類が平等に消えるか私が消えるしか解決策は存在しない気がします。誰も期待していない文章で、こんな人間に高尚なエレメントの詰まった文章なんて書けるはずもなく、私にはなにも情動(パトス)を抱いてはいけません。虚無の犠牲者となるのです。人が嫌い 世界嫌い 言葉が嫌い 過去未来 怖い 怖い 怖い


きっと頭のよい諸君は、ここまでの要領を得ない駄文に飽き飽きしてブラウザバックするに違いないのです。最早、この文字列を映し出す液晶パネルは私のPC以外にこの世には存在しません。この時空において私以外は存在しません。つまり、この世界は私のものという宣言とイコールになります。これが私が神である、もしくは神と同等の存在であることの約やかな証明です。スピノザによれば延長するもの及び思惟するものは神の属性の変状だ、とのことなので、言ってしまえばこの文章自体が神の一部なのかもしれません。園崎詩音になりたいです。


そして人間が生きることは死に向かうことですが、神は生きながら死んでいる状態にあるので、私は風呂場で腐乱した死体と同じです。つまり、私以外存在しない世界でただひたすら風化するのを待つのみですが、都会の喧騒を燼滅掃討してようやく手にした桃源郷なので、それはきっと贅沢なことです。もし死体に意思があったとしたら、徐々に腐敗しゆく己の肉体を見てなにを思うのでしょうか。人生を無為に徘徊するオタクとは全然別物の腐敗なので、一生理解出来る日は来ない気がします。この流れだから言うと女の子よりも女の子の格好をした男の子の方が好きなのでフォロワーはどんどん私のDMに送って下さい さて このへんで導入は打ち切りましょうね


本来ブログって「旅行に行った」とか「ゲームで好成績を出した」などの具体的なテーマで書くものだと思うのですが、無職青年の一日は社会性不安と自家撞着で成立しているのでマジで中身のない文章しか湧いてきません。それとも、「自転車に乗りました」「煙草吸うならアメスピはやめとけ」みたいなクソどうでもいい日常のレビューを書くべきなのでしょうか。望みなどはあったでしょうか。二郎系以外の食べ物から味を感じられなくなりました。
そして大抵が奇麗なイラストや写真、もしくは簡潔に纏めた文章を掲載するものだと最近気づいたので、バカみたいに4000字も5000字も書いてる体験記なんてものはブログ記事とは呼べない気がします。好きに呼んでやって下さい。フレデリックの「DNAです」を聞いて「そうか、DNAなのか」と納得してスマホの画面を叩き割りました。


社会不適合者オタクなので当然、世間様から白い目や罵声や石礫や火炎瓶を浴びせられるのには慣れていても、どうもその中に自己を殺して入り込むとのっぴきならないならない憎悪と嘲弄をヌメヌメと感じます。小学生がよくやる、標的に気づかれずに背中に「マヌケ」とか書かれた紙を貼って、周りから底意地悪い笑顔を向ける、そして本人も合わせてヘラヘラ笑いながらもどうして笑われているのか分からない、そういった薄気味悪さを周囲の視線を痛いほど感じるわけです。朝の電車に乗っている人は、全員無関係なふりを装っていても根本は一つの生命体として私の精神を削りに来るために存在していると思います。


人混みにいると精神摩耗し自己嫌悪に苛まされ、ついには発狂死する独自の生態系を持つことは「小学館の図鑑NEO」に書かれてるレベルの常識で、「おたくのいきざま」ページでこれでもかと罵倒されていました。死体に集る無数の蛆虱のような百鬼夜行と、脳に直接電磁波攻撃を仕掛ける無数のフラッシュが正気を失わさせます。半分冗談でなわとびで首を吊ったことがありますが、数秒も経たないうちに目の前が真っ暗になるので案外すぐに記憶を飛ばすものなのでしょう。背後には無数の目と触手を持ちこちらを指さして歯をだして笑っている一つのバカげた化け物が確かにそこにいます。正直殺すならさっさと殺してくれた方が楽なのです。辛いこつた辛いこつた!


地下鉄という現代のカタコンベはある種独特の負のオーラを纏っていて、埋葬された遺体の代わりに自殺しようとする人を、盗掘された遺品の代わりに性欲を満たす痴漢犯を、隠れていた異教徒やゲリラの代わりに囂然たる足音や喧噪をその内に匿っています。それでいて、各々の人間があらぬ方向に目をキロキロと向け、少しでも周りに危害を加えようと切磋琢磨しているわけです。映画メトロポリスのように、完全に同じ動きをする人間だけならどれほど気が楽だったでしょうか。実存主義の観点によって警鐘を鳴らされてきた公共な世界での生活に埋没する頽落的な生き方は、皮肉にも現代において最も快適なスタイルにまで成り上がってしまったのです。
突然歩いているのに立ち止まる、混んだ改札に引っかかって流れを停滞させる、盲目かのように目の前を突然横切る、階段だけ物凄い勢いで駆け降りる、といった大衆による行為は、すべて私を殺そうとする群集心理の片鱗ではないでしょうか。それでいて、恐怖感のみを与えて息の根を止めようともしないのが気持ち悪さを増長させています。生きるのが辛く、苦しくてしょうがない人間がこの世の大半を占めていると勝手に思っているので、それなら朝の改札で集団自殺をしても一種のエンターテイメントになるに違いありません。もし周りにいる30人が一斉にナイフで首を突き刺して自殺したら、残された群集はどうするでしょうか。間違いなく、ナイフで将棋倒しのように自殺の連鎖が続くでしょう。


そしてきっかけさえあれば死のうと思っている人間の集まりは、時としてベクトルが違えば1人の人間を殺す方向へと舵を切ります。そして、今がまさにそのときである気がしてなりません。もしかしたら、私たちの気付かないところで無意識の殺人に加担している可能性すらあるのかもしれません。あなたたちは全員殺 突然やる気と時間を失ったので書くのを中断します


やはりブログというものは明確なテーマがないとなかなか筆が進まないものですね 次は中二恋聖地巡礼とかプロメアの考察とかFX必勝法とか明るい話題が見つかるよう努力します 二度とお目にかかることがないよう信じて祈って下さい さらば救われん