yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

観葉植物

 

お久しぶりです。特に理由もなく過去の投稿を削除したり突然閉鎖したりしていました。 最近雨続きだからか精神的にもヤバい日が続いているのでそっとしておいてください。

 

 

「ASMR音声作品で百合ップルの部屋の観葉植物視点のものがある」という噂を小耳にはさんだのでさっそくググってみたら、音声作品ではないのですがなにやら気になる作品があったのでさっそく読んでみました。

 

や、こういった切ない感情のシェイクでミキサーをかけられるみたいな体験は久しぶりのような気がします。大体百合作品って、一人称視点でお互いの感情にコミットして物語が紡がれていくものだと思うんです。たとえば「やがて君になる」であれば、主人公の小糸侑が誰かを特別に想うことが理解できないといった心情描写がストーリーの基軸なわけです(これが駄目だとかそういうことではない)。

しかしこの作品は、徹頭徹尾色々あって観葉植物に転生した姉が妹をめぐって起きる少女たちの群像劇を百合厨のメタ的な解説を踏まえつつ忠実に描写していて、新鮮でありながらも求めていたところにスッと入り込む感じがしました。

 

おそらくこういった作品を読む人だったら必ず考えたことはあると思うのですが、百合という概念そのものに対してどのように向き合えるのかという悩みはいつ解消されるのでしょうか。同性愛をただのコンテンツとして消費する価値観はさすがに不道徳かつ主体性がなさすぎるので可能性として排除したいですが、とはいえ百合はヘテロ的恋愛と異なるからこそ作品性があるわけで…。

ただ「あぁ~」と刹那の切なさに身をゆだねるという楽しみ方もあるとは思いますが、現にいま様々な作品を読んだうえで女の子同士がちゅっちゅしているというシチュエーションに対して自分はどのように対峙するかということを分析することで、さらによりよく百合の作品を位置づけることができるのではないでしょうか。

 

 別にヘテロ的恋愛作品を否定するわけではないのですが、どうしてもそこには自己投影するという性質が絡んでくるのではないかと思います。勝手なイメージですが恋愛映画を見に行く人の大半はロマンティックな状況を自分に当てはめているでしょう。しかしそこに自分の入る余地はなくそうであるべきでない(いわゆる神の視点、ただし神は存在しない)シチュエーションの場合、純粋にその関係性と心情の動静を追うことができます。このへんが百合作品に臨む際の根底となっているのかなあと思います。

 

しかしそれはただの野次馬的な価値観にすぎないぢゃあないかと思ったら、そうあるべきでもないなと思う反面もあってなかなかふわっとした結論も出ないなという板ばさみの状態にあります。そのなかで、観葉植物という視点(完全な第三者ではない)がポイントとなっているこの作品は革命的であると言えるのではないでしょうか。

自分→百合CP の直接的な視点ではなく、自分→観葉植物→百合CP という介在された視点がそこに新たな意味づけができそうですね。知らんけど。

 

しばらく前ですが公開当日に「ランボー ラストブラッド」を見に行きました。あれはいいですね。1.8メートルもあるポスターもついでに買ってしまったので、毎日スタローンに見降ろされながら床に寝転がっています。圧がすごい。

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