yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

過去と未来の狭間のだめライフ──「不真面目さ」で社会に亀裂を入れる

※こちらの文章は「人民新聞」に掲載されたものの初稿です。

 

 2023年は「だめライフ」の年であった。4月ごろからSNSを軸に群発的に現れた「だめライフ愛好会」は瞬く間に日本各地へと伝播し、11月現在その数は50団体を越えている。主に大学名を冠した「だめライフ愛好会」が多いものの、地域や高校規模の単位でも散見することができる。もはや「だめライフ」の全体像を掴むことは何者にも不可能ではあるが、果たしてこの怪しくありつつもどこかマヌケなブームとはなんなのだろうか。

 ブームの立役者である「中央大学だめライフ愛好会」によると、活動目的とは単純明快に「“だめ”に生きればそれでいい」だけである。すなわち“良く”生きるために頑張らなければ自動的に「だめライフ」の完成である。このような簡単な活動スタイルを実現するためには何をしたらいいのか、あるいは何をしなければいいのかという発想力のもと、「だめがだめでいられる場所」を基本的理念として様々な展開を見せている。大学構内に勝手に畑を作る者、路上飲みや路上鍋を開催し続ける者、スペースを借りてトークイベントを開催する者、特に外には出ずにSNSを更新し続ける者、などなど。

 具体例に示したように、如何に「だめ」でいられるかという思想と実践は一様ではないのだが、「だめライフ」とはかつての「だめ連」や「法政の貧乏くささを守る会」からインスパイアを受けたものであることを考えるとヒントを得ることはできる。これらの新奇性は従来の「真面目な」運動とは一線を画し、社会から逸脱した人間や諸々の理由から生きづらさを抱える人のライフスタイルに焦点を当てた、緩やかな脱国家的・脱資本主義的な運動という性質にあった。そうであるならば「だめライフ」もまた、過度な競争主義や自己責任論が蔓延し、資本主義に従順に適合した労働力商品とならなければならないという観念に染まった現代社会に対して、なるべく働かないし消費もしないというスローでオルタナティブな生き方があるということを人々に提示する運動であると言えるだろう。すなわち「失われた30年」とも言われる、どう足掻いても希望の持つことができない日本社会に対する諦めが根底に存在し、そこのアンチテーゼとして敢えて「だめ」さを前面に押し出している。残されたパイをめぐってより過酷な争いに身を投じるのではなく、そこから一抜けして自分たちの領域、つまり「だめがだめでいられる場所」を広げていくことで、人々はより自由・自律的な生き方が可能となるのである。

 現代社会においては、結婚や子育てといったライフステージを着実にクリアし、なにも文句を言わずに定年まで働きつづけ、お上が言うことに唯々諾々と従わなければ「だめ」とされる。「だめ」な人間は社会から排除されると脅され、誰しもが生きづらさを感じているにもかかわらず、そこに反旗を翻すことは許されない。その歪んだ社会を維持し続けている結果が、精神を病んで自殺に追い込まれたり、不満のはけ口としてハラスメント行為に及んだり、他者に危害を加える犯罪に走ったりする人々が後を絶たない現状である。ならばもう開き直って「だめ」でいることに誇りをもった方が、より人間らしい生き方ができるのではないだろうか。

 このように考えると、国家権力やグローバル資本といった抑圧者に対して闘う姿勢をもつことも、まずは自分たちの暮らしを守るためになにもせず寝そべることも、どちらも両義的に「だめライフ」であると言うことができる。我々はただ「だめがだめでいられる場所」にいたいだけであるにもかかわらず、大いなる反発や弾圧を招くことになっている。大学内の畑は話し合いもなく大学当局によって一方的に封鎖され、安心・安全あるいは迷惑行為防止を騙って公共空間におけるあらゆる営為は規制され、再開発や都市のクリーン化によってあらゆる人やモノが渾然一体となっていた猥雑な街は消滅していきつつある。もはや「だめ」に生きるだけでさえ許されない時代状況であるならば、必然的にそれらと闘わなければならないときも時には存在する。それは街頭に立ちデモや抗議行動に参加することでもあるし、好き勝手に耕作やトークイベントを通じて交流の輪を広げることでもあるし、あらゆる既存の秩序を拒否して家に閉じこもることでもある。そういった多様性をお互いに承認し、協同して徐々にこの現代社会にズレや亀裂を生じさせていく試みとして「だめライフ」の意義が存在する。

 とはいえ、現状では生活や時間にある程度の余裕がある学生や若者によるものであるという側面は否定できない。また、首都圏や関西圏といった人的・経済的・文化的資本に恵まれた地盤においてしかあまり活発に動けないという現状もある。過酷なワーキングプアに苦しむ労働者や、学生運動カウンターカルチャー的な土壌のない地方の学生にとっては、どこか遠くて触れづらい雰囲気をまとっていることは「だめライフ」の課題であると言えよう。そういったある種の特権性には自覚的でありつつ、全国規模に広がるネットワークという特徴を生かした交流活動や、反貧困運動や野宿者運動といった生活に焦点を当てた運動との連帯を模索しながら、「だめ」に生きることのできる人が少しでも増えるような社会へと変革していきたい。