先日、静岡県伊東市にある「まぼろし博覧会」と「怪しい少年少女博物館」を訪れた。両施設はいわゆるB級珍スポットとして一部の界隈では知られており、筆者自身も機会があれば行ってみたいと長らく思っていた場所だった。
両施設は出版社のデータハウスが運営している。データハウスは1980年代からタブー志向の書籍を刊行し、90年代には『危ない1号』などのムック本を通じて、死体・ドラッグ・性・身体改造・カルトといった、当時の一般的な出版物が扱いにくかった題材を一つの誌面に集約した出版社である。
あらかじめ断っておきたいのは、本稿は展示品の内容そのものを問題視するものではないということだ。悪趣味・グロテスク・猥雑なものを無秩序に陳列することこそが本施設の存在理由であり、そうした不謹慎なものを見てみたいという欲望自体を否定するつもりはない。むしろ筆者はその欲望を共有してこの場所を訪れた一人である。しかし実際に足を運んでみると、想像していたより大したことがなく、端的に言って白けてしまった。以下では、なぜそのように白けたのかについて考えてみたい。

展示品の脱文脈化
まず気になったのは、展示品が徹底して脱文脈化されていることである。両施設は自らを「昭和レトロ」と称しており、実際に昭和期のものを中心に収集している。戦争関連の展示品、ストリップ劇場など性風俗にまつわるもの、剥製や人形、古いゲームやポスター、そして学生運動関連の展示品が、区別なく乱雑に同じ空間に並べられている。
たとえば学生運動の展示について。会場に置かれたゲバヘルはあくまでもレプリカであり、配布されているアジビラもコピー機で複製されたものにすぎない。館長は、学生運動の立て看板やゲバヘルの文字について、当時の活動家たちはペイントに不慣れで字が下手だったが、その拙さにこそエネルギーが宿っていると説明している(※1)。
この発言は象徴的である。ゲバヘルに書かれた文字は、本来は国家権力による弾圧下の学生運動とその後に続く陰惨な内ゲバという具体的な政治的緊張のなかで書かれたものであった。しかしここでは、その政治性は捨象され、字の下手さやゲバヘルという特異なアイテムの内包するエネルギーという要素だけが取り出され、賞賛されている。
筆者がこの学生運動の展示に特に注目したのは、左翼運動史について多少の知識を持っているからだが、ここでは学生運動の歴史がただ回顧の対象として並べられ、「昭和レトロ」を表現するための一つの記号として消費されているだけだと感じた。おそらく他の展示物についても、それぞれの領域に知識のある人が見れば、同様の感想を抱くのではないだろうか。
こうした配置によって、弾圧された学生運動、性産業における搾取の構造、戦争の加害と被害など、長い昭和という時代の中にあったはずの異なる文脈や歴史が、「レトロ」「カオス」という一つの感覚に回収され、それぞれの政治性・加害性・被害性が均されてしまう。これは単なる展示の乱雑さではなく、脱政治化することによって記憶を無害化する装置として機能していると言える。
90年代サブカルチャーとの接続
この脱政治化を理解するには、90年代サブカルチャーとデータハウスが果たした役割を補助線として考える必要がある。ただし筆者は2000年生まれであり、当時の空気を直接知っているわけではなく、またことさらにサブカルチャー論について明るいわけでもないので、あくまで図式の整理として述べる。
データハウスが果たした役割は次のように整理できる。第一に、社会の周縁にある事象や言説を「発見」したこと。第二に、それらを「悪趣味」「鬼畜」「危ない」というカテゴリーで再編集し、商業誌として出版したこと。第三に、書店やイベント、今日のような観光的空間で消費可能なコンテンツへと変換したことである。こうして「悪趣味」は個々の異常性の集合であることをやめ、「悪趣味であること」自体を消費する一つの文化的ポーズになった。ここで起きていたのは、反商業的な外観やタブー性そのものを、商業出版という回路に乗せて売るという構造である。
データハウスの出版物が反商業的な外観を商業出版という回路に乗せて売るという構造を持っていたのと同じように、「まぼろし博覧会」や「怪しい少年少女博物館」もまた、かつての逸脱やタブーを入場料を払って体験する観光商品へと変換する装置になっている。子ども料金まで設定されていることを見ると、これらの展示物は親子連れの観光客もウェルカムであると判断できる。
この子ども料金の設定は、単に商業的な間口を広げるだけの措置ではない。そもそも会場には、性風俗関連の展示や生々しいラブドールなど、実際には子ども向けとは判断しがたいものも少なくない。それでも子ども料金が設定され、親同伴であれば来場が想定されているという事実は、内容の是非を親の価値判断に委ねることで、施設側が展示内容そのものへの説明責任を回避できる構造になっていることを意味する。子どもは困惑しながらも、あるいは無邪気に面白がりながらも、大人がその場を通り過ぎる姿を見ることで、目の前の展示を「特に立ち止まって考える必要のないもの」として学習する。無害化は、こうして家族連れの来場という形式を通じ、世代を超えて再生産されていく。
筆者がこの空間に白けた理由は、展示物そのものにあるのではなく、逸脱や反抗の身振りが商品として再流通する回路そのものにあると考えられる。入場料さえ払えば誰でも、家族連れでも安全に消費できる形式に整えられたとき、逸脱や反抗の摩擦はあらかじめ取り除かれてしまう。逸脱の見た目だけが残り、社会的な軋轢や危険性は商品化の過程で丁寧に漂白される。筆者が感じた白けとは、この漂白がすでに完了したあとの、いわば残りもののような感触だったのではないかと思う。
「選ばない」という自己矛盾
館長は田原総一朗との対談のなかで、展示品を選別しない方針についても語っている。いわく、生モノや法に触れるもの、弱者を差別するもの、危険なもの以外、集めたものすべてを展示しており、目についたものをできるだけ現実世界にそのままの状態で持ち込んでいるのだという。選別すれば偏りが生まれ、特定の関心を持つ人以外には退屈なものになってしまう、というのがその理由である(※2)。
一見すると、これは中立的で謙虚な姿勢に思える。何かを「時代の代表」として権威づけることを避け、雑多なものをそのまま提示するという発想である。しかし、「選ばない」こと自体が、極めて強い編集方針であることを見落としてはならない。「弱者を差別するもの以外は展示する」という基準は、裏を返せば、何が「差別」であり何がそうでないかという線引きを、館長が単独で行っているということである。
素直に解釈すれば、ストリップ劇場やラブドールに内在する性的搾取の構造は、この基準のもとでは「差別」として除外される対象にならなかったということになる。「選ばない」という自己規定は、実際には暗黙の選別を不可視化する語りであり、その不可視化によって、政治的・歴史的な検討抜きに展示が正当化されている。
さらに言えば、「選ばない」という主張そのものが、より根本的な矛盾を抱えている。学生運動の熱や性風俗の猥雑さ、大衆娯楽の粗雑さなど、社会の周縁にあった雑多なものは、それぞれ異なる文脈のなかで混じりあいながら、制御しきれないエネルギーとして存在していたはずである。しかしそれを「選ばずに」一つの施設へ集め、「キモ可愛い楽園」として一つのブランドのもとに束ねること自体が、すでに強力なキュレーションにほかならない。
「選ばない」と言いながら、社会にあった本来のカオスを、パッケージ化された疑似的なカオスへと編集し直している。無選別を装うことによって、選別という行為そのものへの批判をあらかじめ免れる。この構造こそが、「選ばない」という語りの自己矛盾である。
「サブカル」的消費の言説
評論家の佐々木敦は、「サブカルチャー」という語が「サブカル」へと省略される過程を、単なる略称の変化としてではなく、過去や歴史への態度そのものの変化として論じている。前者にはカウンターカルチャーとしての性格や、過去の文化への一定の敬意や憧憬が残っていたのに対し、後者の「サブカル」は、「面白いか」「ネタになるか」「使えるか」という即物的な視線で、文化を無差別にサンプリングする傾向を強く持つとされる(※3)。
この施設の館長は、展示を「サブカル」ではなく「現実社会をテーマにしている、これ以上ないほどのメインカルチャー」だと自己規定している(※4)。しかしこの語りは、展示品を昭和庶民のメインカルチャーとして一括することで、いったい誰の生活文化なのか、誰がそこから排除されてきたのかを曖昧にしている。それぞれの展示品が内在している差別性や加害の歴史は、文脈が切り取られることによって、そもそも問われる機会を失っているのではないか。
ここに大きなズレがある。あくまでも外部の観客やメディアは、90年代的な「悪趣味」「B級」「サブカル」というカテゴリーでこの施設を消費する。一方で運営側は、それを「庶民文化」「生活文化」の保存だと位置づける。この施設は、90年代サブカルの「悪趣味」「露悪」「珍奇」という志向を観光地の商品へと変換し、本来はまったく異なる歴史を持つものを「カオス」という一つの様式へと統合している。実際、SNSやYouTube上の反応を見ても「精神崩壊」「ヤバすぎる」といった言葉が目立ち、こうした言説自体が、この施設をさらに消費可能なコンテンツへと押し上げている。
そこで語られているのは多くの場合、個々の展示品が持つ歴史や背景ではなく、「どれだけ驚いたか」「どれだけ映えたか」という反応の強度でしかない。ここでは、展示物が何であるかよりも、それを見た自分がどれだけ強いリアクションを取れたかが優先される。極端に言えば、対象が学生運動のゲバヘルであろうと巨大な招き猫であろうと、「精神崩壊した」という一言に置き換えられてしまえば、両者の違いはほとんど問題にされない。アテンションさえ獲得できれば、その中身が何であるかは二の次でよいという消費の論理が働いている。
これは展示を「メインカルチャー」と位置づけたこととも矛盾する。もし本当にこれが誰かの生きた「文化」であるならば、その文化を経てきた人々の経験や葛藤、加害と被害の記憶が、消費の過程で問われてしかるべきだろう。しかし実際にネット上で流通しているのは、文化の中身ではなく、驚きのリアクションを生成するための素材としての展示物にすぎない。「文化」を掲げながら、その受容のされ方は単なる刺激の供給と消費の往復に留まっている。「メインカルチャー」という自己規定と、実際にこの施設が消費されている様式とのあいだには、大きな断絶がある。この施設が「文化」の名のもとに提供しているのは、実のところ文化のように見える形をした、ドーパミン的刺激の集積のように感じる。
用意される「お祭り」
館長は、来場者に「楽しい気分になってもらうため」に、祭囃子のBGMまで動員していると語っている。展示のテーマは「お祭り」だという(※2)。たしかにここは祭りなのだろう。ただし、それは誰の記憶も傷つけない、あらかじめ無害化された祭りである。学生運動のゲバヘルも、戦争の遺物も、性風俗の看板も、同じ神輿に乗せられ、同じ笛と太鼓で練り歩かされる。祭りとは本来、共同体の緊張や矛盾を一時的に発散させる装置だったはずだが、ここでの「お祭り」は、緊張そのものをあらかじめ取り除いたうえで演出される、極めて安心安全な祝祭の空間である。
こうした消費のされ方こそが「サブカル」だとするのであれば、やはりこの空間そのものがまさに「サブカル」を体現していると言えるだろう。別にそれが必ずしも悪いわけではない。この場所を楽しいと感じ、写真を撮り、SNSに投稿する人がいることもまた事実であり、その欲望を頭ごなしに否定したいわけでもない。
そして白けたと言いながらも、筆者自身は結局のところ入館料を払い、館長との記念写真を撮り、グッズ売り場をひやかして帰ってきた。逸脱や反抗の身振りが商品として再流通する回路を批判するこの原稿もまた、その回路の外側に立っているわけではない。むしろ施設の話題性に便乗し、一つのブログ記事として消費されるべく書いている点で、筆者自身もまた、この用意された「お祭り」の神輿を別の形で担いでいるにすぎないのだろう。
参考文献
※1 「田原総一朗、「キモ可愛い楽園」まぼろし博覧会を訪れる」(ダイヤモンド・オンライン) https://diamond.jp/articles/-/339014
※2 「「カオスを体験し、現実の世界で常識をぶち壊せ!」田原総一朗と「まぼろし博覧会」セーラちゃんがカオス対談」(ダイヤモンド・オンライン) https://diamond.jp/articles/-/339015
※3 「サブカルチャーが「サブカル」になるとき|佐々木敦『90年代論』第7回」 (光文社新書) https://shinsho.kobunsha.com/n/ne65badbf3709
※4 「説明不可能、説明不要。伊豆の珍奇スポット『まぼろし博覧会』へようこそ!」(BRUTUS) https://brutus.jp/post-116811/







