暗渠

やく~とさん@ひとりごと

8.6広島平和祈念式典反対行動の記憶

先日、アナキスト系の「8.6広島集会実行委員会」の主催する広島平和祈念式典への反対行動に参加したので、そのことをここに記しておきたいと思う。なぜ私たちは平和祈念式典に反対するのか、それは一体どのような行動であるのかについて、あるいは今後興味をもった人が雰囲気を知るためとして役立てば幸いである。

毎年のことではあるが、8.6広島の平和記念公園周辺にはいくつもの団体が集まってスピーカーなどを使った抗議行動を行っている。見たところ最も人が集まっているのが中核派系(今年は特に多かった気がする)、解放派現代社派と赤砦社派(両方とも青ヘルメットにゼッケンをつけている)、関西共同行動や部落解放同盟といった市民運動系、日蓮宗系の僧侶、あとは私たちアナキスト系といったところか。こうした抗議行動は「静かに祈る日だ」といった言説によって、これまた毎年のように物議を醸している。とうとう2021年に制定された「広島市平和推進基本条例」という条例の第6条2項では、平和祈念式典は「厳粛の中で行うものとする」とされ、周辺でスピーカーなどを使用して抗議することが難しくなってきているようである(これには憲法19条の保障する思想良心の自由、憲法21条の保障する表現の自由を侵害するのではないかとする批判もある※1)。

 

まずはなぜ私が8.6広島の平和祈念式典に反対するかについて簡単に述べておこう。第一に日本政府の言動不一致である。出席した岸田首相の挨拶を読めば、なるほど確かに核兵器のない世界と恒久平和の実現への追求が見て取れるかもしれない。もしくは犠牲となった人への哀悼の意、後遺症に苦しむ人へのお見舞いの気持ちがあるかもしれない。しかし現実に日本政府がやっていることといえば、憲法9条を変えて自衛隊を明記するといった改憲策動、2014年の集団的自衛権行使容認や2015年の戦争法成立など、おおよそ平和の実現とは程遠い軍事国家化と戦前回帰である。そして「唯一の被爆国」でありながら核兵器禁止条約には参加せず、むしろアメリカの「核の傘」に頼り核共有の議論まで起こっている。一体これでどの口で平和祈念式典で挨拶をするのかと考えると、到底日本政府が主導して式典を挙行することに義があるとは思えないのである。政府が平和を祈るのであれば、まずは平和を実現するための主体的な行動を取らなければならない。

第二は原爆犠牲者の画一化・隠蔽の恐れである。多くの良心的市民の皆さんが8時15分に黙祷を捧げて原爆の犠牲者を追悼し、平和を祈るように、この日が大切な日であることは間違いない。こうした市民の態度は一切否定しないし、むしろそうでなくてはならないものだと思う。市民が黙祷するとき、たとえば近親者に犠牲者がいる場合はその人のことを考えるだろうし、そうでなくても市民的道徳として犠牲者を思い浮かべて死を悼むことだろう。こうして市民が広島の記憶を残し続けることは核兵器の廃絶と世界平和へとつながる一歩であることは言うまでもない。

しかし市民一人ひとりや有志団体が黙祷を捧げることと、政府が主導して平和祈念式典で黙祷を捧げるようにすることは大きな違いがある。政府が黙祷し平和を祈るとき、約11万人とも言われる犠牲者を十把一絡げにして、大きな数の犠牲者のなかに隠蔽されてしまう。そこにはただ広島の町に暮らしていた無辜の日本人、強制連行されてきた朝鮮人や中国人、アメリカ人の捕虜など、様々な犠牲者がいるにもかかわらずだ。政府が犠牲者をひとまとめにして平和を祈るための材料とするとき、悲劇の広島という「大きな物語」の中にすべて回収されていってしまう。これではもはや犠牲者一人ひとりに対して向き合うことはできず、ただ漠然とルーティンのように黙祷が繰り返されるだけではないだろうか。政府がやるべきは黙祷ではなく、被爆者への救済や実態調査、そしてなにより犠牲者に対する謝罪といった事実行為で向き合うことなのである。

第三にそもそも何に対する平和祈念なのかということだ。そこが平和祈念式典では曖昧にされ続けている。原爆投下とは、地震や洪水といった自然災害と違って、なにかしらの人為的な作為の結果による悲劇である。そしてその作為とは、日本が朝鮮と中国を経て東アジアを侵略してきた帝国主義、そのあげく無謀にも対米戦争を起こしたことによるアメリカ軍の攻撃の結果である。原爆投下は落としたアメリカ張本人のみならず、日本帝国主義によって引き起こされた悲劇なのだ。平和を祈念するのであればまずは日本帝国主義に対する反省がなくてはならない。しかし日本政府はかつての植民地支配に対して謝罪と賠償をしないばかりか、冷淡な態度を取り続けているではないか。徴用工問題を、従軍慰安婦問題を見よ。そして政府にも跋扈する歴史修正主義者を見よ。日本政府は一貫して植民地支配に対して真摯に向き合ったことなどないのである。平和について考えられるとき、往々にして食らった被害とその悲劇についてばかり取り上げられるが、かつて日本帝国主義によって加害を繰り返してきた歴史についてはほとんど触れられない。平和を祈るのであればまずは加害の歴史に対してしっかりと向き合い、二度とそのようなことを繰り返さないことを誓わなければ、その言葉は空虚なままであろう。

細かいところを置いておけば、反対する理由としてとりあえずはこんなもんだ。といっても戦後民主主義の落とし子であるリベラルにとって「しかし平和祈念式典で騒ぐのは…」という違和感はあるだろうし、私としてもまだまだ考えねばならないことが多い。しかし少しでも平和祈念式典に反対する人の意図がわかってもらえると幸いである。8/6も8/9も8/15も、悲劇を追悼し黙祷する日ではなく、こうした意図のもとに反戦運動を闘わなければならない日なのだ。

 

 さて、難しい話はここまでにして、行動の前後の話に移ろう。時は8/5、前日の夜である。私たちは大阪から車3台に分乗して広島へ向かった。アナキストはみんなカネがないので、高速道路ではなくずっと下道を走っていった。途中コンビニで休憩したときに、そろそろ車を出すというときに突然カップラーメンに湯を入れ始める奴(「左派過食主義者」らしい)や運転しないのをいいことに酒を飲み始める奴もいたが、おおむね行程は好調で6時過ぎには広島に入った。近くのコインパーキングに車を停めて準備をし、広島のアナキストの人たちと合流をする。例年は原爆ドーム周辺で他の団体と同じように行動に移っているようだが、今年は少し離れて元安橋付近での行動となった。日本第一党のバカが「八・六反日左翼に負けるな!広島大決戦」などと称して無政府主義者を名指しで攻撃することを予告していたが、そのせいか遭遇しなかった。今年はスピーカーを使わず、プラカードと横断幕によるサイレントのスタンディングであった。式典参加者は物珍しそうに見る人もいればそのまま素通りしていく人もいたが、ビラの受け取りは順調であったと思う。8時15分より少し前には元安橋を渡って公園内へと移動し、いままさに式典が行われている裏での反対行動となった。少しでも私たちの思いが届いていればいいなと思う。

ヒエ~~ッッッ

 8時15分を過ぎると一旦コインパーキングへと戻り、他の団体がシュプレヒコールをあげているのを聞きながら10時からのデモの準備に移る。個人的には赤砦社派を見ることができたのがよかった。若者の何人かは黒いヘルメットをかぶり、ノンセクトあるいはアナキストとして反戦運動を闘い抜く決意をあらわにする。集合場所に着くと想像以上に警察が多いことに若干面食らったが、すぐに全員で士気を高めてデモに移った。黒い横断幕と黒旗を先頭にし、「広島の歴史を忘れるな!」「岸田政権の改憲策動を阻止するぞ!」「全世界の民衆と連帯して闘うぞ!」などといったシュプレヒコールのなかがっちりとスクラムを組み、笛の音とともにわっしょいわっしょいと進むというスタイルだ。途中で警察のデモ参加者への妨害がありながらも、全員無事に反対行動と反戦反核運動を打ち抜いた。道行く人の反応もよく、あるいは他の団体では見ないようなアナキストの戦闘的なデモに興味津々な様子であった。

 昼からは「広島の戦後復興を問う!8・6広島集会」を開催し、戦後復興期の広島の住宅・労働・ジェンダー問題に関する講演、広島の平和記念公園が設置されるにあたって強制移転させられた墓地や供養塔や慰霊碑をめぐる話、ABCCのやってきた体のいい人体実験の話、現在の基町周辺にあった原爆スラムに関する話などで議論が行われた。徹夜で移動してきたというのもあり眠気から死屍累々になっていたが、広島のアナキストとの交流・議論を通じて広島の戦後復興について、またアナキズム運動について考えるよい機会となった。個人的には平和記念公園が作られるときに景観にそぐわないとして移転させられた墓や設置が認められなかった韓国人慰霊碑の話を聞き、「平和都市」として戦後復興を遂げてきた広島の欺瞞性とそれによって隠された犠牲者について考えさせられた。

翌日は朝7時に集合し、元々軍事施設だった宇品の施設やABCCが置かれていた比治山、原爆スラムがあった基町などをフィールドワークした。原爆スラム跡は団地が立てられ、体育館や公園といった公共施設が建設されている。スラムの排除後にはこうした施設が置かれることはよくあり、元をたどればいまの平和記念公園も戦後スラムがあったところに作られている。広島の戦後復興からはなかなか見えてこないスラムや排除といった問題は、やはり掘り返さなければ分からなくなる暗部であることを実感した。

ABCC跡(現・放射線影響研究所)

基町の団地と再開発でサッカースタジアムが立てられるスラム跡




※1 http://www.jcp-hiro-shigi.jp/parliament/4565

野宿者の排除と生きる権利 ── 映画「関西公園~Public Blue」を見て

『関西公園~Public Blue』(アンケ・ハールマン/2007年)

 公園や河川敷や路上にひしめき並ぶ青いシートで覆われたテントの光景も、いまでは過去のものとなってしまった。1990年代から2000年代にかけて増加した「ホームレス」の一部はそうしたテント掛けによって暮らす場所を得て、個人あるいは集団で身を守ってきた。路上で生活することは飢えや寒さ、襲撃といった危険と常に隣り合わせである。そこで最低限度の生活と命を守るためにテントを立てて野営をするというあり方は、決して特異なものではなく全世界的にみられる姿だ。

 では日本ではそれがなぜ過去のものとなっているのか。確かに生活保護や福祉を受ける権利を獲得してきたという動きもあるだろうし、増加する「ホームレス」という社会問題に対して行政が対応せざるを得ない状況にあったということも考えられる。しかしそうした対策によって「ホームレス」の人たちは自主的にテントを畳んだわけではなかった。この映画はテントの数々が過去のものへとなりゆく境界を切り取り、不可視化される「ホームレス」の抵抗を記録したドキュメントである。

 映画はテント掛けして暮らす野宿者と支援者が、代執行によってテントが強制撤去される日程が決まったことを話すシーンから始まる。大阪城公園と靭公園の2つにあったテント群は、2006年に公園整備工事という名目のもとで移動するように命じられた。しかし仕事も帰るべき家もない野宿者は、テントがなくなると生活できる場所がなくなってしまう。行政はシェルターと自立支援センターに入所するように勧告するが、そこに入ってしまえば二度と公園にテントを立てないという旨の誓約書を書かされ、所有物を保管する場所もプライバシーもない環境で自由を剥奪されることとなる。野宿者は行政が提示する「自立支援」が自分たちを公共空間から排除するためのものだということを身に染みて実感しているからこそ、テント生活の継続を要求しているのだ。「かつては飯場などで働いていたが加齢とともに仕事もなくなった」と作中で語る野宿者の一人からは、社会の最底辺で無権利状態に置かれていても自分自身で生き延びるのだという覚悟が感じられるとともに、失業や産業構造の変化によって一度野宿生活になると安定した住居を持つだけの労働にありつくことの難しさが伝わってくる。テントの強制撤去に反対するデモのコールの中には「仕事をよこせ」という叫びも含まれていた。つまり雇用と居住の保障がない「自立支援」とは、他に行くところがない野宿者がかろうじて生活するためのテントすらも簒奪して社会から見えないように上書きする暴力なのである。

 公園とは一般的な意味では「公の空間」であるが、従来から日本の都市には公共空間は存在せず、もつれあった交通ネットワークと雑然とした居住空間があるだけだったと作中で説明される。西洋から輸入された“Public”という概念のもと新しく開かれた公共の開拓地は、行き場を失った野宿者の生活する場所となった。安定した居住はすべての人権の基礎にあり、それすらも保障されない野宿者にとって公の空間に設置するテントは生存権に基づいた最低限の財産なのであるから、不当な侵害を受けてはならない。そして公共空間とはすべての人に開かれているものだから、野宿状態にあっても市民と平等に扱われなければならない。権利性において弱い立場にいる野宿者であるからこそ、公共空間はその人たちを受け入れる必要があるからだ。しかし現行法下ではそうした公共性の議論もないままに、「占有」だとか「排他的支配」という言葉によって公共空間から野宿者が排除されるのが現実だ。作中で映し出される公園の景色は、新しく野宿者がテントを立てられないようにフェンスで囲んで圧迫し、狭い通路を通らないと公園の中に入ることすらできないという、おおよそ公共空間という言葉からはかけ離れた矛盾であった。

 さて、なぜ2006年に大阪城公園と靭公園にあったテントが撤去されなければならなかったかというと、5月に控えていた世界バラ会議なるイベント開催の関係で公園にテントを立てて暮らす野宿者の存在は不快感を与えるからだった。なんとも差別的で暴力的な理由であるが、大規模イベントの開催にともなって周辺に住む野宿者が排除される現象は世界中で巻き起こってきた。それはスポーツ大会、文化的行事、政治的イベントなど、様々な場合に生じている。たとえば記憶に新しい東京オリンピックでも明治公園に住む野宿者に対する強制的な排除がなされたし、都営霞ヶ丘アパートの住民も追い出されて取り壊しに遭った。このような大規模イベント開催にあたってメディアはこぞって好意的な報道ばかり流して国民は熱狂させられるが、その背後には必ず警察を使った露骨な暴力と弾圧によって生活を奪われるアンダークラスの人々の犠牲があるのである。

 その直接的な暴力がありのまま映像に残されたのが、映画終盤部分の何百人もの警察と市職員が威圧するようにテントを包囲して、代執行によって強制的に排除をする場面である。それに対してテントが撤去されてしまえばその日から行き場所がなくなる野宿者たちは支援者とともにスクラムを組んで抵抗する。ヘルメット姿で群れをなして距離を詰める市職員に対してあまりにも無力な光景に見えるが、それは野宿者の命を守るために必要な闘いなのだ。いまではほとんどなくなってしまった野宿者のテントとはこうした暴力的な手続きを経て姿を消していったということを映像資料として残し続けているのである。

 いまでは公園などにテントを立てて暮らすという姿がほとんど見られなくなったからといって、「ホームレス」がいなくなったわけではない。住む場所を追われると持っていた荷物も諦めてどこかで定住しない生活を強いられることになり、孤独に生き延び続けるという状況に追い込まれる。あるいは路上で死ぬことを余儀なくされる。もちろん望む人が路上生活から脱出するということを支援することも大切であるが、その一方で野宿状態にある人がいかに安心して過ごせる場所を確保できるかという闘いも同時に作っていかなければならない。ブルーシートに覆われたテントの数々をやや牧歌的に記録しつつも、殺人行政の横暴さと野宿者たちの必死の抵抗を現在にまで伝えているこの作品は、よもや公の空間に暮らすことさえままならない現代を生きる者にとって必見である。

 

※この文章は正体がよくわからない交流誌『レーテ』vol.2に掲載したものである。編集・発行の「都市と労働研究会」はこちら

『くらしのアナキズム』雑感

アナキズムというと「無政府主義」と訳されるように国家を転覆するラディカルな思想であるように捉えられたり、あるいはヘイマーケット事件やサッコ・ヴァンゼッティ事件のようにアナキストには爆弾テロや強盗のイメージがなすりつけられていたりする。しかし本書はマルセル・モースの『贈与論』やデヴィッド・グレーバー、ジェームズ・スコットといった文化人類学者の研究から、国家から逃れて生きる人々の「暮らし」に焦点を当ててアナキズムを論じる。筆者は鶴見俊輔の言葉を引用してアナキズムを「権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想」(p.24)と定義し、アナキズムの原点である相互扶助社会の建設(の挫折)と国家の支配に対する抵抗について考えていく。
アナキズムは第一にあらゆる権力による強制に対して抵抗するが、権力は国家権力のみならずあらゆる関係に内在するものだ。権力による強制は国家のみに生じるのではなく、また体制への抵抗のもとより身近な場で抑圧が発生する可能性すらある。そこで筆者は普通の人々の生活のなかで育まれてきた共同体としての実践論に問題解決の糸口を見出す。
たとえば行商人らと町人が売買し交流するかつての市場(いちば)とは世俗の主従関係から切り離された非日常的な空間であり、平等が原則とされる自治空間が成立していたと指摘する。市場(いちば)とは寺社や教会などの宗教的な場と密接な関係をもち、その神聖さを利用しながら行商人や職人から物乞いといった無縁の人々が集結することで、自由と平和を維持するというアナーキーを実現する。市場(いちば)では小規模な商いの連続によって人々が対等な関係を構築し、それぞれの生活を保ってきた。しかしやがて繫栄した市場(いちば)では国家と結託した金もちが資本を独占し、膨大な利益を手にするようになる。つまり人々が自由・平等・自治を守るためには独占しようとする力を内部から生じないようにすることが課題であり、アナキズムの問いはいかに独占を拒絶し民主的な空間を作り出すことができるかにある。
そこで共同体のなかで強制力をもたない政治を実現するために、筆者は多数決で物事を決めるのではなく全員で納得いくまで話し合い、身の回りのことを自分たちで解決するという手段が必要であるとする。全員が平等であるという原則のもとで双方の折り合いがつくまで話すことで共同体の内部破壊を防ぐことができるのだ。このような意思決定プロセスは2011年のオキュパイ・ウォール・ストリート運動にも見られたし、災害時に行政を頼ることができなくなった地域では人々が生きるために自然に発生してきた。アナキストの民主主義論は人々の自由と平等を守るために最も身近な方法であり、かつ共同体を維持するために必要な考え方である。
国家のなかで、私たちは政治や経済といった本来は自分たちの生活に結び付いているものが、行政や政治家や大企業といった一部のシステムによって動かされているという錯覚に陥っている。資本主義のもとでは人々は単なる生産者と消費者の関係に落とし込まれ、産業システムの歯車として組み込まれている。このように人々が無力な個人単位に分断されて権力と資本に従属させられている現代だからこそ、アナキズムの理念に立ち返っていかに「暮らし」を守るために抵抗するかということを考えねばならない。本書はいまの機能不全となった民主主義を再考するために、また自分たちの生活を守るための共同体をいかに作り上げていくかについて、示唆に富んだ一冊ではないかと思う。

「武蔵野五輪弾圧裁判に勝利しよう!五輪有罪!バクチク無罪!3・21関西支援連帯集会」 参加報告

 3月21日に大淀コミュニティセンターで「武蔵野五輪弾圧裁判に勝利しよう!五輪有罪!バクチク無罪!3・21関西支援連帯集会」が開催された。2021年7月16日に武蔵野市で行われたオリンピックの「聖火」セレモニーに対して、会場の周辺の路上で爆竹を鳴らして抗議をした黒岩大助さんが「威力業務妨害」として逮捕・起訴されるという弾圧事件があった。この集会は黒岩さんの抗議行動を全面的に支持するとともに、これからの裁判闘争を含めた反弾圧闘争をたたかう仲間たちに連帯するため、釜ヶ崎トロールの会と自由労働者連合の共催で開かれた。

 集会は自由労働者連合のMさんの集会基調読み上げからスタートした。(1)なぜ黒岩さんは東京オリンピック開催に対して抗議をしたのか、冒頭陳述などによって明らかとなった理由の確認、(2)爆竹を鳴らすことによる東京オリンピックへの抗議が、イベント会社の業務妨害へとスリ替えられて国家権力により弾圧されたことの不当さ、(3)「平和の祭典」を騙って国威発揚ナショナリズムを煽ることによる、世界の労働者民衆を国民国家へと分断するオリンピックそのものの欺瞞性、の3点の問題を明らかにし、結集した多くの参加者の拍手によって支持された。

 次に弾圧の当該である黒岩さんが登壇した。ここでは近代オリンピック・パラリンピックの起原と過去のオリンピックにともなった戦争、虐殺や弾圧が確認され、官民が一体となってオリパラ開催という「例外状態」に便乗した政治プロセスの形骸化やセキュリティ強化がなされるという新自由主義的政策の実行(祝賀資本主義)への批判がなされた。特に「聖火リレー」は1936年にナチスドイツが開催したベルリン大会によって開発されたというナショナリズム扇動の意味合いをもつこと、ベルリン大会後にはナチスドイツが「聖火リレー」のコースを逆進する形でオーストリアズデーテン地方に侵略を進めたという歴史があることの振り返りによって、オリンピックが「平和の祭典」だとして象徴的に開催される「聖火リレー」のまやかしを明らかにしたことが印象的である。

 黒岩さんのあとには釜ヶ崎トロールの会のKちゃんが登壇し、ナチスドイツが開催した1936年のベルリンオリンピックの欺瞞性と、それに対する抵抗闘争の振り返りをした。ユダヤ人の排斥を公然とアピールし、ニュルンベルク法によってユダヤ人の政治的な諸権利を剥奪したナチスドイツが、国際批判の高まりへの懸念から一時的にもユダヤ人迫害を緩めた。ナチスドイツとゲルマン民族の威信を発揚するためのプロパガンダ装置としてのオリンピックを否が応でも成功させるためには、人種差別的政策と反政府活動家に対する人権侵害を一時的にでもやめなければいけなかったのである。これはアメリカやスペインをはじめとする国のボイコット運動や国内におけるナチスへの抵抗闘争が起因している。もちろんこの「民族の祭典」の大成功のあとにはユダヤ人やロマ族に対する迫害や反政府活動の取り締まりの強化がなされたことは言うまでもない。

 一時休憩のあとには明治大学田中ひかるさんが登壇し、スペインのバルセロナで開催される予定だった人民オリンピックにかんする講演がなされた。バルセロナ人民オリンピックは1936年のベルリン大会に対抗するために準備され、この大会ではIOCが主催するオリンピックは軍国主義と戦争を助長しスポーツが軍事や戦争動員に悪用されることへの批判、そしてスポーツのもとで世界中の人民が団結して平和と文化の促進を求めるという意味合いがあった。反ファシズム人民戦線のもとで準備された人民オリンピックにはカタルーニャ自治政府やスペイン共和国政府をはじめとしたさまざまな国から支援が送られ、またバルセロナを中心に展開する自主独立精神とアナキズム運動によって支えられていた。結果的に開会式の2日前に蜂起したフランコ反乱軍に対する闘いにはじまるスペイン内戦によって人民オリンピックは中止となってしまったが、こうした民衆による文化的運動によってファシズムに対して抵抗することが可能であったということは、現在にもわたって重要な意義をもっている。

 質疑応答ではあらためて五輪弾圧が不当であることとこれからの裁判闘争の重要性が確認され、黒岩さん本人が「威力業務妨害」によって逮捕・起訴されたことに対する思いや爆竹によって抗議したことの意味を語った。そして最後の個人・団体アピールでは関西を中心として活動する団体の最近の情勢報告がおこなわれ、ロシアのウクライナ侵攻に対して民兵として戦っているアナキスト大隊・レジスタンス委員会やアナキスト・ブラック・クロスの後方支援といった海外の活動の共有がなされた。集会は終始和やかな雰囲気で進められた。

 オリンピックは「五輪貴族」と呼ばれるような一部の特権的身分がますます肥え太るための装置であり、このようなメガイベントを開催することによる国民国家への統合と「反対派」分断の策動である。このことはオリンピック後であってもNHKの「河瀬直美が見つめた東京五輪」なるインチキ番組で反対派はカネで動員されているとするデマゴーグを流してまで貶めようとすることからも明らかであり、ますますオリンピックによる民衆の分断は深められている。どこそこの国がメダルを何個取っただとか、どのアスリートが好成績を残しただとかいった情報がテレビ・ラジオ・インターネットなどを通じて喧伝され、民衆は歓喜の渦へと無理やり放り込まれて熱狂的にオリンピックに追従することを余儀なくされる。そしてこのオリンピック・フィーバーの裏では都市再開発や野宿者の排除が着々とすすめられ、国家と資本によるジェントリフィケーションはさらなる脅威となる。国威発揚ナショナリズムのためのオリンピックによって民衆はこれ以上振り回されてはならず、また黒岩さんに対する弾圧攻撃も許してはならない。そして東京オリンピックの次には2025年の大阪万博や2030年の札幌オリンピック招致といった「祝賀」が用意されている。こうしたメガイベント開催をはじめとする民衆の抑圧に対して徹底的に闘っていかなければならない。

 

五輪有罪!バクチク無罪!

 

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8.2~8.10 東北・北海道

どこに行ったか忘れそうなので。大部分がTwitterの転載に近いです。

 

8.2 京都→白川郷→富山

・9時くらいの新快速に乗って岐阜方面へ向かう。GWに岐阜へ行き、岐阜駅前や本巣市の方面にかけて「安達としまむら」の聖地巡礼的なものを済ませて以来なので、おおよそ3ヶ月ぶりである。

・岐阜駅で降りて適当にそのへんのドラッグストアで買ったパンを食べて、高山本線で北上する。ロングシートしかなかったので劣っている。飛騨高山というと旅情をかきたてられるものだと思っていたが、電車に乗っていてもそれほど感じられるものではなかった。あと列車の一番前でずっとウロウロしながら写真を撮る鉄宅には辟易とした。

下呂で降りて特急に乗り換える(鈍行で行ってたら白川郷行きのバスに間に合わないので)。下呂駅にいた駅員の態度がずいぶんと尊大だったのに少し腹が立った。乗ったのは「ワイドビューひだ」だったと思うが、さっきまでのロングシートと違ってとても乗り心地がよかったので、今後は特急で移動したいと痛感した。

・15:07に高山駅に着き、15:15の白川郷行きの高速バスに乗り換える。これを逃したらもうバスはないと恐れていたが無事乗車できた。乗客は我々2名しかいなかったことから、そもそも公共交通機関では行くようなところでないことがわかる。

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・1時間ほどして山に囲まれた秘境とも言える白川郷に到着する。同行した友人とともに「ひぐらしのなく頃に」のファンなので、始終その話ばかりしながら探索していた(新作アニメの圭一があまりにもタフネスすぎる話など)。着いた時刻が遅かったこともあり(でも京都から一番早い電車に乗っても16時になるんだよなァ)、ほぼ店などは開いておらず有料エリアにも入れなかったので、また日を改めて行ってみたい。飛騨牛コロッケを食わせろ。

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梨花ちゃまと沙都子が住んでる家のモデル

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鉄平の家はちょっと笑ってしまった

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「嘘だッ!」のところは多分このへんだと思われる

・↑下3枚は1枚目の展望台に上る坂の麓部分に集中していた。アニメの距離感がバグるぞ。あとは古手神社のモデルになっている「白川八幡神社」にも行った。おたくの絵馬がいっぱいあったわね。

 ・あとは適当に蜘蛛の巣だらけのトンネルを歩いたりコンビニに行ったりしながら過ごし、20時前にバスで再び高山駅へ向かった。滞在時間は3時間ほどだが、暗くなると本当に見る場所もなく時間を持て余してしまう。バスは当然のように乗客は我々しかいなかった。またもやギリギリに電車に乗り、ロングシートにイライラしながら富山駅へ向かった。

・富山は去年の12月に来たので8ヵ月ぶりくらいだった。富山はほぼ電車が三セク化されておりJR限定の18切符を使うと袋小路になっているので、夜行バスで新宿まで移動する。疲れておりよく眠れた(睡眠薬飲んだが)。

 

8.3 富山→東京→仙台

・6時半にバスタ新宿に到着し、そんな時刻から東京に住む友人の家に押し掛けるも拒絶されたので秋葉原へ向かう。それが9時過ぎとかで当然ながら店も開いていないので、神田を経て浅草まで徒歩で移動。せっかくだから秋葉原や神保町で色々な店を見て回ればよかったのだが、なんだか虚脱感でなにもかもどうでもよくなっており、テンションがとても低かった。

・2~3時間ほど歩いたのちに浅草寺で知人と別れ、山谷をちょっと歩いてから南千住駅から電車に乗る。しかし軽くしか見ることはできなかったので、今後山谷や渋谷の野宿者運動に参加することがあればそのときにじっくり考えてみようと思う。 

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・1時間半ほど電車に揺られて栃木の小山で乗り換えで降りると、ちょうど近くにラーメンの山岡家がありそうだったので徒歩で移動。京都の人間だから山岡家は知らないんだよな。うまかったが魂心家に近い味だったような気がした。あと地味に駅から遠い。とても日焼けした。

・小山から6時間弱ほど電車に乗り、23時半に仙台に到着する。この道中もずっと固い座席のロングシートで腰が痛かった。仙台駅から近いカプセルホテルに泊まった。

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この日でバスで380キロと電車で357キロの移動だった

 

8.4 仙台→双葉町

すき家で飯を食ったりゲーセンで時間をつぶしたりしたのちに、常磐線で仙台から双葉まで移動する。東北に行ったならば一度は福島第一原発周辺の街並みを見ておきたかったためである。またここに関しては別で思い出しながら文章に起こすなどをしたい。

・12時半くらいに双葉駅に着く。2020年3月の常磐線全線開通に合わせて、この後向かう大野・夜ノ森駅とともに新駅舎が建設されたようで、駅周辺の施設やその目の前にあるロータリーだけは綺麗だった。3月にはこのロータリーでオリンピックの聖火リレーまで開催されたというのだから、駅周辺だけでも復興したというていに見せたい威信が見て取れる。

・散策しながら周辺の街並みを見て回る。レンタサイクルがあると聞いたのに借りられなかった。双葉駅周辺は「特定復興再生拠点区域」として制限なく自由に歩けるが、そこから500メートルも離れたところは放射性物質の中間貯蔵施設が広大な面積を占めている。よって駅以南に行こうものならフェンスに通行が阻まれるし、そもそもそこに居住している人はいない。

・失礼な言い方になるが、双葉駅周辺は震災のときに荒廃したままずっと時を止めている。あるのは半壊した家屋か、すでに解体されて更地になった雑草だらけの空間だけである。解体工事をしている作業員のほかは道行く人もいない。(大野・夜ノ森駅周辺と違って)一般市民でも市街に足を運べることからおそらく除染作業は完了しているのではないかと思うが、「復興」と呼ぶにはあまりにも遠すぎる姿だ。

 ・駅から2キロほど離れたところにある「東日本大震災原子力災害伝承館」も行った。ここは原発災害の復興の資料を保存・展示する施設で、周辺の街の近代以降の歴史を福島第一原発に焦点をあてて解説するなどをしている。

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ここから先は中間貯蔵施設となっている。よく見ると奥に放射性廃棄物の黒い袋が大量に置かれている

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緑色で囲った範囲はすべて中間貯蔵施設でフェンスに囲まれており、一般人は出入りできない

・次に福島第一原発に最も近い(5キロぐらい)大野駅に向かう。この周辺は帰宅困難区域に指定されているため、一部の道路を除いて全域がフェンスに囲まれておりどこにも出入りできなかった。駅から出て1分くらいのところはすでに道路が止められており、原発に接近することも周辺を散策することも不可能である。復興どころか街全体がフェンスに囲まれている大野駅周辺に人が住むようになるのはまだまだ先であろう。

・その後は双葉駅の次にある浪江駅の周辺にあるビジネスホテルに泊まった。浪江駅周辺には普通に人が住んでいる。近くのイオンで買ったチキン南蛮弁当を酒で流し込んで眠った。

 

8.5 浪江町→横手

・朝起きて大野駅の次にある夜ノ森駅へ向かう。「未確認で進行形」の主人公の苗字が夜ノ森ぢゃんなどと考えて勝手に喜んでいたのだが、どうやらWikiPediaによると作者がいわき市に在住でキャラの苗字は福島県浜通りの地名から取っているらしい(そういや大野とか桃内とかそうだったナ)。


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夜ノ森駅大野駅と同様に、駅の目の前からフェンスに覆われていた。通行可能な道路を残して街のほとんどすべての区画が震災当時のままの姿を残しているのは心苦しい景色である。これまた双葉駅と同様に新しい駅舎に建て替わった夜ノ森駅とは対照的な様子がよくわかる街だ。

・と思いきや、線路の反対側は帰還困難区域から外れているようで、普通に民家に住んだり雑草除去の作業をしていたりする人が見られた。確かに除染作業は終わって家屋も建て替えてあるのだろうが、線路を挟んでこうも景色が変わるものかと唖然としたものである。福島第一原発から10キロも離れていない街で、各所に設置されている空間放射線量の装置を見ても一応は基準値を下回っているが、いやはや…。

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環境省の基準値は0.23μSv/h

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・繰り返すようだが、この2つは100メートルも離れていないどころか線路を挟んでいるだけである。この違いはなんなのだ。

・その後はいわき駅まで南下して磐越東線に乗って郡山へ、そこから磐越西線に乗り換えて会津若松から新潟方面に抜けるか、福島を経由して奥羽本線で山形方面へ抜けるかと考えていた。しかし踏切か信号のトラブルで磐越東線が止まっていたため、仕方なくいわきから常磐線で引き返して仙台、小牛田を経て陸羽東線に乗ることにした。最終的に新庄まで来た乗客は私しかいなかった。

・19時過ぎに着いた新庄で、乗り換えに時間もあるので飲み屋でも行こうと思って近くにある「丹波黒どり農場」に入った。これまでスーパーかコンビニでしか飲食物を買っていなかったので、4日目にして初のちゃんとした飲み屋である。なんで出羽まで来て丹波のモノを食べてるのかと思ったがまあよいだろう。

・その後は奥羽本線で横手まで出て快活に泊まった。

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約400キロってことは東京から仙台より長いんだな


8.6 横手→青森

・快活を例によって7時間59分で退店して一番最初に乗れそうな電車が北上線だったのでそれに乗る。当初は秋田から大館の方に行くつもりだったのだが、駅で待つのが面倒になったためである。北上線は一日の乗降客数が120~30人程度で、ほとんど乗っている人はいなかったのではないか。

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なんでわざわざこんな遠回りしたんだろう

盛岡駅前のラウンドワンで時間を潰したりなんか盛岡城跡に行ったりしたのちに弘前へと移動する。太宰治津軽』を読んで以来、弘前には行ってみたかったのである。弘前城から岩木山を見たり太宰が弘前で住んでいた旧家に行ったりした。弘前市は人口18万人に満たない規模だが、駅前や商店街はなかなかに栄えていた。願わくば大鰐温泉などでゆっくりと過ごしながらもう一度行きたい街である。

・2時間半程度弘前巡検してから青森へと向かう。青森駅からほど近い場所にある、ウィークリー翔系列のホテルに泊まった。一泊2000円と安いのだが、チェックイン時刻があまりにも早いのがネックだ。Wi-Fiもなく薄暗い部屋で吉野家の牛丼を缶チューハイ3本で流し込んで寝た。

 

8.7 青森

・せっかくだから五所川原や金木の方面へ行こうと思っていたが、朝起きてから虚脱感が酷くなにもする気が起きなかったので、昼前までホテルで酒を飲みながらミリマスのドラマCDを聞くなどの行為をしていた。

・散歩がてらamazarashi『空に歌えば』のMVのロケ地になっている公園に行ったり、青函連絡船のメモリアルシップに入ったりした。青森に来たのはamazarashiが好きだからという点が多い(むしろそれくらいしかない)。昼間から海鮮丼をサッポロビールで頂き、そのままホテルで二度寝した。以前に和倉温泉で食べた海鮮丼は大したことなかったが、青森で食べる海鮮丼は今まで食べたなかで一番美味しかった。とても幸せになった。

・それからたまにコンビニに酒を買いに行ったり吉野家に行ったりしてさっさとホテルで寝た。駅前に安いスーパーがないのはいかがなものか。


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ここのところ数百キロの移動をしていたのにこの日は2キロぐらいしか歩いてない

 

8.8 青森→むつ→竜飛岬→函館

・とりあえずamazarashiが好きなものとしてむつ市には足を運んでおきたかったので始発に乗って向かった。そういえば青森駅には自動改札があったな(鳥取駅や徳島駅は見習え)。大湊に関しては特筆すべきことはなかったが、次に行くときは恐山や大間の方に抜けるために車が欲しいところである。また原発や核燃料の再処理施設がある六ヶ所村にも行ってみたかったが、あまりにも遠かったので諦める。

・次に一度は竜飛岬にも行っておきたかったので、大湊から青森に引き返して津軽線三厩まで北上する。三厩は一日5本しか列車がないので、遅れたら取り返しのつかないことになる土地である。

三厩駅から竜飛岬までの約13キロはコミュニティバスが出ており、片道100円という破格の値段で乗れる。よく晴れており海と空の青いコントラストが綺麗で、海の向こうに北海道や下北半島も見ることができ、ようやく観光らしい観光のような気がした。太宰治の文学碑も見ることができたし。

・竜飛岬からは再び青森駅へ戻り、快活で汗を流してから23時半発の函館行きフェリーに乗った。学割で1700円ぐらいだったので大変お得。

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手前にあるのは違憲軍の警備所で、かつて日帝の要塞があった。せっかく綺麗な海を見たかったのに興ざめである。

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階段国道」と呼ばれる国道339号

 

8.9 函館→札幌

・3時半くらいに函館に着く。8月だというのに北海道は想像以上に寒かった。フェリーターミナルから函館市街まで4キロほど歩き(道中はじめてセイコーマートを見た)、函館の朝市に行く。500円でわりとしっかりしたカニ丼が食べられたので大変優れている。函館はどことなく長崎や神戸に街並みが似ていたように思う。曇っていたので函館山には登らず、また気力もなかったので立待岬にも行かなかった。

・次に路面電車五稜郭へ向かう。ゴールデンカムイでちょうど五稜郭に立てこもるシーンを読んだところだったので大変趣深かった。五稜郭の中はこれといってなにもない空間に函館奉行所があるのみで、横の展望タワーから見る方が壮大である。

・函館奉行所のなかの歴史展示物は函館戦争をどちらかというと新政府側に立って説明しているのに対し、展望タワーの中の展示は旧幕府軍を擁護する立場であるような印象を受けたのが面白かった。土方歳三の像とかも置いてたし。 

・11時に北海道の玄関口たる函館駅(青函トンネルがあるいまはその役割もあまり果たしてないが)に戻って長万部に向かう列車に乗る。北海道まで来ると東北ではあまり見なかった鉄宅が多く、やけにカメラを構える姿を見たためあまりよい気分がしなかった。北海道の列車は暖房のためかデッキつき二重扉になっているが、走行中に開け閉めして写真を撮るなどはしないで欲しいものである。

・鉄宅に対する怒りは長万部駅で頂点に達した。別になにかされたというわけではないのだが、室蘭経由で札幌に行く電車が来たタイミングで我先にと改札に向かう鉄宅20人ほどを見て同じ車両に乗っていられるものかと弾け飛んだ。

・その列車は見送ることにして、小雨が降るなかセイコーマートに酒を買いに行く。追加で1時間ほど長万部駅で飲酒しながら小樽行きの列車を待った。小樽には3時間ほど座りっぱなしのうえスマホの充電も少なく、日が暮れてろくに景色も見れないまま(そもそもあまり景色を楽しむタイプではない)鉄宅に対する怒りを沸々と湧き上がらせながら乗車していた。

・小樽は小林多喜二の故郷でもあり巡検したかったのだが、夜に雨のなか宿を求めて歩くのも面倒だったのでそのまま札幌へ向かった。次は小樽もちゃんと行きたい。札幌ではアパホテルに泊まり、飲み屋でも行きたかったが「まん防」で飲食店が軒並み閉まっていたので(すすきのは結構営業していたようだが…)、札幌駅前通松屋でテイクアウトを頼んで缶チューハイを煽り眠った。

 

8.10 札幌→大阪

・起きたら9時半を過ぎていたのでホテルの朝食が食べられなかった。適当に周辺を散策して二条市場で海鮮丼を食べた。これまた肉厚でとてもうまい。

・その後は「水曜どうでしょう」の聖地でもある、旧HTB社宅とその横にある平岸高台公園に行った。やはりここも味わい深い。

・札幌駅周辺でゲームセンターに行ったりラーメンを食べたりして、繁華街で時間をつぶしながら飛行機の時間まで過ごそうとしていたが、いざというタイミングで札幌→新千歳空港の電車が大雨の影響で止まっていたため急いでバスの行列に並んだ。これがなければより札幌周辺でだらだらと過ごせたに違いない。

・その結果思ったより早く新千歳空港に着いてしまったので空港でビールを飲むなどして適当に時間を潰した。また乗る予定だったジェットスターの便も1時間ほど遅れていた。この日からむつ市や函館は大雨に見舞われていたので、あと1~2日日程が遅ければ大変な目に遭っていたことだろう。

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