yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

「だめライフ」とアナーキズムの関係についての対話

〇人物紹介

やく~と(以下「Я」と表記):本稿の筆者。立命館大学だめライフ愛好会の一人。4回生。

A:立命館大学の学生。とある公認学術系サークルに所属している。4回生。

 

 

〇「だめライフ」とはなんなのか

A:最近主にTwitterで「だめライフ愛好会」が注目を集めているね。

Я:とりわけ先日に大芸大だめラが大量に謎のビラを貼ったりしたことを発端に「発掘」されている感じがある。といっても結構前から存在することは存在していたんだけど。

A:Twitter上の議論を追う気がしなくてあんまりどういう話に発展しているかは分からないんだけど、チラッと見た限りだと、「だめライフ愛好会」は左翼だとか、アナーキストだとかそういう批判がなされているように感じるなあ。

Я:よーし、ではそのあたりの話を中心に考えていこう。といっても、左翼だかアナーキストの話に入る前に前提として「だめライフ愛好会」とはなんなのか?について話さなければならない。発端といえば中央大学のだめラができたことで、そこから理念に共感した学生によって東大や東海大や九州大や和光大などに点々と派生していったサークル群であると言える。立命館だめラもその一環で、関西では初めてのだめラとして作られたわけだね。

A:「だめライフ」という誰でもできそうで敷居の低いサークルだからこそ広まったと言えるね。ナントカ研究会だとか〇〇主義者同盟だと小難しい話ばかりしていそうだし、何より危なそうな政治色が強すぎる。

Я:「政治色」という言葉自体も手垢が付きまくったワードではあるけど、まあその話はおいおい。「だめライフ」を名乗るサークルはいま30個ぐらいあってその全容を把握できているわけではないから、中央大や東大といった比較的アクティブなだめラに焦点を絞るけども。活動内容としてはキャンパスで葉桜を見ながら駄弁ったり、フリーマーケットを開いたり、あるいは東大のようにザリガニ釣って勝手耕作をしたりという実践をそれぞれが好き勝手にやっているムーブメントなんですね。なにか統一的な指揮系統があるわけでもない。

A:これだけ聞いたらなにか特定の思想があるわけでもない集団に見えるけど、実際はそうでもないというわけ。

Я:中央大だめラさんはnoteの記事で自身のサークルについて「だめ連」「法政大学の貧乏くささを守る会」の影響を受けていることを明言しているし、東大に至っては対談でアナーキズムの実践と言っているので、少なくとも根本には学生運動の影響があることは明らかなんだな。いわゆるノンセクトってやつです。まあ、知っている人からしたら何を今更という話だけど。

A:中央大は「令和のだめ連」を名乗っていたりもする。2000年代以降は松本哉の影響を受けたノンセクト運動が定期的に出てきては消滅するということを繰り返していると思うけど、「だめライフ」もそのうちの一つであると考えてよいのかな。

Я:路上鍋をやるだとか「路上解放」のスローガンでデモをするノンセクトはいたと思うけど、「だめライフ」はSNSを通じて全国的なネットワークを築いているということは特徴の一つとして挙げられると思う。中央大だめラが対談で「既存の政治党派みたいにストレートに政治的な訴えをしてっていうんではなくて、なにか面白いことの中に思想を込めて、ノンポリの人たちの気を惹こうみたいな考えでやってる」と言っているように、一見政治的でないくだらない活動であるように見せかけて根本には自由や自律といった思想の実践という動きなわけです。ですから「左翼だ!」みたいな批判は「そりゃそうだろ」としかならない。

A:完全に政治色がないお遊び交流サークルにして間口を広げても活動の意味がなくなってしまうし、ゴリゴリの左翼主義的な運動にしてしまえば誰も寄り付かなくなる。そこでバランスを取って「だめライフ」という生活に根差した運動を提示することで、より大衆的にメンバーを獲得することを狙ったものであると言えるわけですね。

Я:「だめライフ」というワードから受ける印象といえば、結局大学に在籍しているモラトリアム風情がイキりやがってとか、あるいは真面目に社会を変える運動に参加せずにプチブル学生だけで集まりやがってとか、そういう批判的な視点はあると思う。実際にそれは一側面として否定はできない。でも「だめライフ」という運動の根本には自由や自律、自己組織化といった原則があり、反資本主義的でオルタナティブな社会を求めるためにまずは自分のライフスタイルから実践していこうという試みであるということがもっと周知されたらいいのではないかと思う。

A:「だめライフ」という言葉で損している感じはあるけど、その気の抜けた感じがいいのかもね。「オルタナティブ・ライフ」とか「オートノミスト」とか呼称しはじめたらどうも真面目くさくてやっていられない。とはいえ真面目な左翼の人からも、本当に「だめ」な人からも批判されてしまう、板挟み的なネーミングではある。

Я:「だめ連」のスローガンに「だめをこじらせる前に連絡を!」というのがあって、立命館だめラもそれを理念としているんだけど、世間には「だめ」という言葉のニュアンスがうまく伝わっていない、もしくはあまりにも批判的に捉えられすぎているんだと思うんだよね。世の中には薬物依存やアルコール依存、ネットワークビジネス自己啓発セミナーや陰謀論にドハマりする人、果てには精神を病んで自殺してしまう人など、不健全に「だめ」になってしまう人が多い。この原因の一端には競争至上の資本主義社会で疲弊してしまうこと、社会的共同体が消失して人々が連帯できずに分断されてしまうこと、自己責任論ばかりがまかり通って生活に過度な重圧を感じざるを得ないことなどが挙げられると思うけど、要するに近代国民国家が従順な労働力としての国民を作り上げるために「だめ」な生き方をしてはいけませんよ、真面目に働きましょうと強制してくるプレッシャーに耐えきれなくなって不健全な「だめ」をこじらせてしまうという悪循環であると思うんですよね。だから「だめ」という言葉を肯定的に捉えなおして、国家や社会によると「だめ」とされているけど私たちは知らないもんね、好き勝手に生きさせろよという試みが必要とされている。なので、「だめライフ」とは「だめ」を私たちの手に取り戻すための実践であるわけです。

 

〇「だめライフ」とアナーキズムの関係性

A:「だめライフ」は根本的には反国家・反資本主義のもとで自律を求めるための運動であるという話をここまでしてきたけど、そう考えると明らかに左翼ではあるわけだね。しかし中央大だめラは「左翼は生活感が感じられないから嫌いだ」という趣旨のツイートを過去にして最近左翼の人たちからも批判されている。これについてはどう考えるべきだろうか。

Я:左翼の人、とりわけマルクス主義を掲げる党派の人というのはあまりにも理念的すぎるという批判的視点があるのではないかと思う。それが理論的に正しい間違いという話ではなく、「革命」とか「階級闘争」と言われてもノンポリな人にとってはピンと来ないわけでしょ。マルクスレーニンなどの理論を学んだ人にとってはそれが正しいんだけど、そうではない人にとってはもっと現実的な話をしてくれよとなる。もっと政治が身近なものであるということを示さなければいけない、という感覚のツイートなのではないかな。

A:もちろんそういった左翼の人たちが地道に闘って勝ち取ってきた権利や守っている暮らしがあることを否定しているわけではないだろうけど、でもちょっとノリが違うよねという感覚なのだろう。この二つは両立可能で、どちらも必要な視点なのではないかな。

Я:さっきの話にもたびたび出ていたように、「だめライフ」がアナーキズムだという批判があるけど、まさしくこれがアナーキズムである所以だと思うんだよね。デヴィッド・グレーバーというアナーキスト文化人類学者が言っていることなんだけど、マルクス主義は「革命戦略のための理論的/分析的言説を目指す」一方、アナーキズムは「革命実践のための倫理的言説を目指す」という特徴があるとされている。つまりよりみんなが暮らしやすいように社会を変革していこうという戦略理論においてはマルクス主義が強いんだけど、アナーキズムは生きやすい社会を築くための社会関係が存在することを前提としたうえで、その生き方に関わる姿勢を追及するという立場なわけ。アナーキズムは「古い社会の殻の内側で新しい社会の制度を創造する」というプロジェクトであり、難しい理論──グレーバーは「高踏理論(ハイ・セオリー)」と言っている──は必要なくて、社会を変革することを望む集団による日常的な実践をする立場であるということを意味している。もちろんそうではないアナーキストもいるけどね。

A:つまり既存の左翼による「革命」のための理論と実践とはちょっとノリが違って、まずは自分たちの生活に根差した場所から変革を起こしていこうとするのがアナーキズムであると言えるんだね。もちろん生活相談とか労働組合運動による生活の向上といったテーマに取り組んでいる既存左翼も多く存在するとは思うけど、「だめライフ」はまずは自分たちの生活に理論的承認を与えるという立場であるという点で異なってくるということか。

Я:おそらくそういう態度は個人主義的であるとしてマルクス主義的左翼や左翼主義的なアナーキストにも批判されるところではあると思うんだけど、でもそういう「ライフスタイル左翼」みたいなのは昔から存在し続けたことを考えると、その延長であると考えられるかもしれない。アナーキズム内部にもそういう論争があって。「だめライフ」は「ポスト=レフト・アナーキー」と呼ばれるアナーキズム潮流の一つに置いて考えられると思うんだよね。ポスト=レフト・アナーキーというのはボブ・ブラックとかハキム・ベイという人が主な提唱者なんだけど、この思潮はアナーキズムのなかでもとりわけ反政治的で快楽主義的、個人主義的であるという特徴がある。ハキム・ベイが「TAZ(Temporary Autonomous Zone=一時的自律ゾーン)」という概念を作り出したのは知ってる人たちにとっては有名な話だけど、要するに権力の管理から完全に免れた空間を小規模に、一時的にでも作り出すことで「生の自律」を実現するという戦略を打ち出した。この方針にはアナーキストのマレイ・ブクチンという人が「ライフスタイル・アナーキズム」であると呼んで、そんな個人主義的なやり方ではなくてもっと社会的に自由を実現するのがアナーキズムだろ、それは「海賊行為をする身勝手でエゴイスティックな遊牧民」が楽しみを追求するために社会を放棄しているだけだとけちょんけちょんに批判したんだけど、とはいえポスト=レフト・アナーキーというのは世界的に見るとなかなか広がりを見せている。特に東南アジアなどでパンクスと結びついたアナーキズムの実践は、衣類の配布やヴィーガンフードの炊き出し、図書館の設立やパンフレット制作といった様々な分野で行われている。自分もこの前マレーシアに行ったとき、Rumah Apiというアナーキストのやっているライブハウスで遊んできたしね。

A:となると「だめライフ」が鍋会をやったり勝手耕作をしたりということをやっているのも、ブクチンが批判するところの「ライフスタイル・アナーキズム」の実践の一環であるとできるんだな。確かに拠点大学を作ってオルグして、デモに動員して革命を目指すというオールド左翼なノリとは相いれない部分がありそうだ。ポスト左翼主義で個人主義アナーキズムの実践であり、社会全体を獲得するといったことが目標ではないわけだから。

Я:CrimethInc.というアナーキスト集団の出した文章なんだけど、ポスト=レフト・アナーキストのアクティビズムに関する宣言では「1. 政治を再び日常の体験と関連のあるものにする」、「2. すべての政治的な行為は楽しくて刺激的なものでなくてはならない」「3. そのためにまったく新しい政治的なアプローチと手順を作らなければならない」「4. とにかく楽しもうぜ」ということを主張している。つまりオールドな左翼のように退屈で抑圧的な「政治」ではいけない、もっと日々の交流が楽しくて充実したものとなるために生活を改善するという「政治」にしようぜと呼び掛けているんですね。もちろんこれに対して反論があるだろうということは容易に想像がつくし、そういうオールドな左翼による地道な闘争が時には必要とされることはあることは事実なんだが、まあそこはどちらのアクティビズムも存在意義はあるだろうと。「だめライフ」はまさに日常生活からのオルタナティブを追求する運動であるので、こういったポスト=レフトなアナーキズム運動の一つとして位置づけることができる。

A:となるとこれからの「だめライフ」に求められるのは、大学の垣根を越えて地域に根差したコミュニテイとしての交流や、共同炊事によって地域住民や生活困窮者とともに飯を作って食糧配布をするといった活動になってくるかもしれない。

Я:ゆくゆくはアナーキズム運動の一環として発展できるのであればそれがいいかもしれないけど、それにしては人もカネも少なすぎる。とりあえずはライフスタイルとしての「だめ」をやりながら、仲間を増やして交流することができたらいいね。