琉球「方言禁止記者会見」に見る「普通の日本人」の植民地主義
はじめに
「方言禁止記者会見」のCMを見たのは定食屋のテレビで、知り合いと「イヤイヤこの企画はマズいだろうよ」という話をしていた。翌日になって果たしてどんな番組なのかを判断するためにTVerで視聴すると、案の定マズい内容であった(なにがマズいかは後述)。しかしTwitterなどで調べても誰も言及していないどころか、「沖縄弁が出ちゃう二階堂ふみ可愛い」といった意見がちらほら見えたため、引用RTという形で「植民地主義的でエグい」と投稿すると、思ったより拡散されて番組が炎上したというのが今回の経緯である。
私はこの番組自体をキャンセルしたいわけではないし、ポリコレ的配慮がなっていないと言いたいわけでもない(植民地主義とは「ポリコレ」以前の問題なので)。また番組の批判者を見ていても少し疑問に思うところもある。そういった疑問や懸念について、本稿では現在の「普通の日本人」による沖縄差別あるいは植民地主義の言説について追っていきたい。
沖縄出身者に「方言禁止記者会見」をやらせるの普通に植民地主義的でエグい https://t.co/HEOqM4pCMz
— やくーと(厄仁) (@addict_ykt) 2024年1月19日
番組の内容、「方言禁止記者会見」の何がマズいのか
はじめに申し上げておきたいのは、決してこの番組は直接的に沖縄差別を扇動するものではないということである。批判者の多くは恐らく番組を見ずに字面で判断しているのかもしれないが、一見すると琉球の言葉や文化についてコミカルに描きながら紹介するというコンセプトになっている。番組の趣旨は「琉球の言葉で質問をしてくる人に対して二階堂ふみは標準語で返答する(琉球の言葉を使用しない)」というものであり、直球で「琉球の言葉をしゃべるな!」と押し付けるものではない。番組中では那覇の思い出の場所や琉球の食文化を紹介し、琉球の言葉はこんなに面白いものであると言わんともしている。要するに琉球の言葉をあえて使わない状況にすることで、かえって琉球の文化や言語のオリジナリティを見出すという構成になっている。
ご存じの方が多いように、日本は独自の国土と政治体制をもった琉球王国を侵略し、琉球処分という形で植民地支配を行った。皇民化政策によって琉球の人々は天皇制支配のもとに組み込まれ、創氏改名によって「本土」の名前へと置き換えさせられ、方言札によって琉球の言葉は使用することを禁じられた。植民地支配のグロテスクさというのは単に過酷な軍事占領をして施政下に置くということだけではなく、文化や言葉や名前といった人々の根本を支えるところから自己否定させ、ひいては記憶そのものを抹消させるというところにある。そしてその過程では一方的に植民者が言いなりにさせるだけではなく、被植民者同士の相互監視と密告が行われてきた(なかば子供の遊びのように実施される方言札はそれを自己規律化してしまうという点でグロテスクなのだ)。すなわち植民地主義とは被植民者に直接的/間接的な屈辱を加えることにより文化の劣等性を身体化させ、植民者と被植民者の間の「優越/劣等」的な二項対立を規範化させるプロセスなのである。
言うまでもないが、太平洋戦争中には「本土」防衛のための捨て駒として沖縄を利用し、全島民の4分の1とも言われる民間人犠牲者を出した。民間人犠牲者は連合軍によって殺害されたのみならず、日本軍によってスパイを疑われて殺された者や集団自決を強制された者も数多く存在する。つまり沖縄は天皇制イデオロギーのもとの「尊い犠牲」となることを強いられたわけであり、ここにも日本による差別と植民地主義の深刻さが見て取ることができるだろう。
戦後においては、「象徴天皇制の維持(国体護持)」と「日本の非武装化(憲法九条)」という日米政府の合意の条件として沖縄を分離軍事支配することとなり、日本人が平和国家を享受する裏で沖縄は米軍に占領されて東アジアの一大軍事拠点として利用された。これが「沖縄は米軍に売り渡された」と言われる所以である。米軍占領下では「銃剣とブルドーザー」によって強制的に沖縄の人々は土地を奪われ、批判の声は憲兵によって弾圧されてきた。また戦後は「本土」に数多くあった米軍基地は反基地運動の影響や日米関係の安定のために撤退を余儀なくされ、そのしわ寄せは「日本ではない」沖縄に押しつけられた。すなわち戦後においても、左右の日本人が一体となって「日本のために」沖縄を犠牲とすることに加担していたのである。
沖縄返還後においては、行政的には沖縄は一地方自治体として「本土」と対等な関係ということになった。また沖縄開発庁(現在の沖縄振興局)も設置され、経済格差の是正やインフラ整備といった政策的介入も行われた。沖縄は温暖で海や自然もきれい、独自のカルチャーもあるとして観光産業が盛んになり、沖縄は「本土」の人間によってブランディングされてきた。もはやこのように見ると沖縄における「本土」との諸問題は解決したかのように見えるし、むしろ問題視する人こそが沖縄を差別していると揶揄されることすらある。
しかし現実を見ると、在日米軍施設面積の7割近くが沖縄に集中しており、沖縄島の約15%の面積が米軍専用施設となっている。補助金を支払えば基地負担を押しつけても正当化されるとし、それによって米軍基地に依存せざるを得ない経済状況を作り出している。沖縄の人々の声を無視して辺野古新基地建設を強行し、抗議者を嘲笑う日本人が数多く存在する。あるいは過去の植民地支配の清算や反省のなきままに沖縄を手ごろなリゾート地として褒めそやし、日本人が奪ってきたはずの文化や言語をコンテンツとして消費する。すなわち現在起こっていることは、沖縄への経済支援や観光地化を通じて「本土」の言いなりにさせるという新植民地主義の段階なのである。
話を戻そう。先述したように、「方言禁止記者会見」は一見すると琉球の言葉を面白おかしく紹介することでむしろリスペクトを払っているとすら擁護できる内容である。しかしこれは過去から現在に至るまでの沖縄植民地支配の過程にあまりに配慮がなさすぎるのは事実である。そもそも「標準語」が正しくて方言は劣った存在であるとする言語的イデオロギーそのものが正当ではないというのは言うまでもないが、過去に日本人が琉球の文化や言葉を暴力的に奪い、戦時中には琉球の言葉を話す人をスパイと見なして殺害してきたという歴史性がありながら、その反省もなく琉球の言葉を一つの面白いコンテンツとして消費する態度はいささか虫のよすぎる話である。いくら琉球の文化や言葉を紹介するためという建前でデコレーションしようとも、現在の新植民地主義的状況に即して見ると、それを再生産する可能性のある企画であると言えるだろう。植民地主義とは植民者が自覚する以上に繊細かつ複雑な問題であり、容易に解決することは難しいからこそ禍根を残すのである(韓国や中国など過去に日本が侵略した国との歴史問題を見ると想像がつくだろう)。
そして番組出演者である二階堂や琉球の言葉に誘導する質問者もまた、こうした状況に組み込まれていることもマズい。恐らくはこの企画に問題があると感じていないか、感じていたとしても断るほどではないという価値判断をしているのだろう。これは彼/彼女らが琉球の文化にリスペクトを持っていないとか、愚かな判断をしているとか、そういった話ではない。もはやそうした価値判断能力すら日本によって奪われているということが問題なのである。
植民地主義のグロテスクさとは、被植民者に植民者の「優越/劣等」の価値判断を規範化させるということを思い出してみると、日本のみならずあらゆる植民地においてこうした過程が繰り返されている。早い話がジェームズ・クラベルの『23分間の奇跡』である。この短編小説でははじめに占領者である「あいつら」に不信や不安感を抱いていた生徒たちが、暴力や脅迫もなくすぐに自国に対して「忠誠を誓う」ことを放棄し、「間違った考え」を持たないように決心するわずか23分間の過程を描いている。文化や言葉から成立している価値判断を捨てさせることは、すぐに新しい支配者である植民者を受け入れて協力させる土壌を作り上げるために植民地主義にとって必要な過程である。すなわち植民地主義とは目に見える過酷な圧政と物理的暴力によって従わせるだけではなく、価値判断そのものを植民者の理屈へと内面化させることにより「共犯」へと仕立て上げることで、植民地支配を決定的なものに確立するのである。そうであるからこそ創氏改名や固有の言葉の抹消が企図されていたし、そうした心理的暴力こそが被植民者を制御しつつ同意を引き出すような権力関係なのだ。
このようにして考えると、恐らく出演者が「方言禁止記者会見」を問題としていないことは、既に文化的な植民地支配が完成しているということを表している。Twitterの反応でも「沖縄出身だがなにが問題なのか分からない」といった意見も見られた。これはもはや植民者が被植民者の言葉をコンテンツとして扱うことの暴力性にすら自覚することができないという状況を端的に表しており、植民者の価値判断に完全に染まりきっているのである。このように争点が完全に隠蔽されることによって当事者すらもその問題の所在に気がつかなくなり、現状に対する不満を抑制して紛争自体を消滅させる権力を「三次元的権力」と言う。いわばまさに、現在進行形で琉球の文化や言語が蹂躙される段階を越えて単なるネタにされているにもかかわらず、その問題にすら気づくことができない状況そのものを示している。これは琉球の人々が悪いだとかアイデンティティを喪失しているだとかいった話ではなく、植民者である日本が100年以上にわたって沖縄の植民地支配を継続してきた「成果」なのである。
そうであるから、番組の批判者がよく「方言札」のようだと言っているが、これは半分は正しいが半分は間違いである。方言札は植民地化の過程において価値判断を植民者に合わせていくために文化的・言語的・身体的に行われる制度であり、自発的隷従をうながすプロセスである。しかし「方言禁止記者会見」はもはやそういった程度をはるかに超越していて、すでに琉球の植民地支配を完了したのちに、日本が「主君」であることを再確認するためにあえて行われるごっこ遊びなのだ。そこでは琉球の文化や言語は日本の「箱庭」のなかでしか許可されないことを意味しており、だからこそバラエティ企画として成立する。「沖縄弁が出ちゃう二階堂ふみ可愛い」というのは、琉球を文化的劣等として位置づけたうえでそこに自覚することすらできない「普通の日本人」から発せられる言葉なのだ。植民地である琉球からの抵抗や抗議がないであろうことを見越した圧倒的な権力勾配のうえに「方言禁止記者会見」は成り立っているのだから、「方言札」よりもいっそうグロテスクなのである。
ここまで琉球に対する植民地主義がいかなるものかということを振り返ってきた。「方言禁止記者会見」の番組企画だけがマズいのではなく、もはやそのような番組がバラエティとして成立し、ろくに批判すらされないというこの状況こそがマズいのである。Twitterの引用RTなどでは「自分はそうは思わない」だとか「こういう人がテレビをつまらなくしている」だとか言われるが、これは恐らくネトウヨではなく「普通の日本人」の率直な感想であろう。「普通の日本人」は琉球のカルチャーを差別することはないだろうし、なんなら観光地として好きですらあると思う。しかしそこにはもはや日本人の植民地主義にすら無意識になってしまう権力関係の積み重ねがあり、また琉球の人もそこに気づくことができないという恐るべき状況にある。これは「普通の日本人」こそが自覚的にならざるを得ない。ということを、私はTwitterで言いたかったのだった。
追記(2024/01/21 12:40)
予想以上に多くの反応をいただいており、正直驚いてはいる。一方でその反応については予想を大きく裏切るものはなく、おおむねこういうものだろうなというものがほとんである。しかしそのなかでも応答しておくべきだと思うものがあるので、補足しておきたい。
まずは「沖縄の当事者が不在で話が進んでいる」というものだ。これは正しい。私はこの番組について沖縄にルーツのある人にどう思うかなどと尋ねていないし、また植民地支配についてそこまで深く込み入った話をしたことはほとんどない(植民者である日本人の側からそのような話をすること自体が権力的かつマイクロアグレッション的であり、なによりグロテスクだからだ)。
確かにこの番組についてそこまで目くじらを立てる沖縄の人はそこまで多くないかもしれないし、むしろ笑ってもらえる内容なのかもしれない。しかしこの番組の問題は当事者性ではなく、「普通の日本人」が内なる植民地主義に無自覚であることだ。恐らくテレビ番組として放映されている以上多くの人がプロジェクトに関わっているだろうし、出演者にも打ち合わせのうえコンセンサスを形成して撮影されているだろう。そこには日本人の側の圧倒的な権力が内包されているにもかかわらず、誰もそれに気づくことができないのである。すでにそこに「完成された植民地主義」が存在し、不可視なものとなっているこの状況こそが問題なのだ。つまり私は「沖縄の人が可哀そうだ」とか「番組が琉球の文化や言語を差別している」と言いたいわけではなく、この番組が「普通の日本人」によってバラエティとして成立していること自体が植民地主義を再生産していることを問題としている。
また「こういう人がむしろ沖縄を差別している」というものもある。このように言う人は「日本人と沖縄の人は対等な関係にあるのだから、そこを問題視する人こそが対等な関係性を損ねている」と言いたいのだろう。このような事例は反-反差別の文脈で往々にして用いられる論法であり、性的なイラストが公共空間に掲示されることへの抗議に対して「こういう人こそがエロい目で見ている」だとか、Black Lives Matter運動に対して「いやいやAll Lives Matterだろう」だとかいったコメントはテンプレのごとく量産されている。
しかし強調しておきたいのが、日本人と沖縄の人はいまは対等な関係にはないという事実である。たかだか150年前に日本が琉球処分によって侵略してから、一度とて対等な関係性になったことはない。そうでなくてはここまで沖縄に米軍基地の押し付けや自衛隊施設の拡大は起きないだろうし(そしてそれは中国への防衛のためという論理で正当化される)、「本土」との賃金や雇用の格差は依然として残り続けているし、なにより「普通の日本人」は沖縄のそういった問題について無関心である。たとえば2022年に宮崎県警の警察官がバイクに乗っていた少年を暴走族と誤認して警棒で殴り失明させ、抗議として少年らが沖縄警察署を襲撃した事件で、どれほど多くの日本人が沖縄に対して冷ややかな反応を向けただろうか。あるいは2016年に高江ヘリパット建設に抗議する市民に向けて大阪府警の機動隊員が「土人」と恫喝する差別発言をしたことについて、むしろ日本人の側から賞賛する声すらあったこともある。つまり「普通の日本人」は自分たちに都合のいいときだけ「日本と沖縄は対等」とうそぶき、一方で少しでも問題が生じるとそこから目を逸らすというダブルスタンダードを繰り返しているのである。
繰り返すようだが、私は日本と沖縄が対等な関係になることを望んでおり、また現在の状況のままでいいとは思っていない。だからこそ「普通の日本人」の自覚なき植民地主義について問題提起を行い、「方言禁止記者会見」のマズさについて言及しているわけである。「寝た子を起こすな」とは権力勾配の上に位置するものが決して言ってはならない言葉なのだ。