yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

なぜだめライフなのに「反戦と生活のための路上鍋」なのかという対話

〇人物紹介

やくーと(以下「Я」と表記):本稿の筆者。立命館大学だめライフ愛好会の一人。4回生。

A:立命館大学の学生。とある公認学術系サークルに所属している。4回生。

 

〇なぜ路上鍋を行うのか?

A:来週の月曜日にキャンパス内の広場で「反戦鍋」をやるらしいね。Twitterで見ました。

Я:やります。以前から立命だめラとしてなにか企画をやるべきだと考えていたし。

A:引用RTでも「なぜ鍋をやるんですか?」と端的に聞かれていたけど、どうして鍋なの。別に他に催しのやりようはいくらでもあったのでは、たとえば中大だめライフのようにフリーマーケットとか、もしくは真面目に反戦集会とか。

Я:最近寒くなってきたのでみんなで鍋で温まりたいから。それ以外に理由がありますか。

A:そうですね。

Я:こんな投げやりな言い方にしたら元も子もないんだけど、本当にそうなんです。寒けりゃみんなで鍋を囲んで暖を取る。こんな当たり前のことさえ、果たしていまの大学のキャンパスという空間で実現可能なのかというある種の試みです。

A:中央大では定期的に路上鍋をやってるし、東海大ではカレーを作ってるみたいですね。東大は言わずもがな。

Я:そう、本来であればキャンパスという公共性の高い空間では、著しく危険だったり他者に迷惑をかけたりする行為でなければなにをやってもいいはず。でも東大では以前にそれほど人の邪魔にならないスペースでバーベキューをやっていただけで学生支援課に止められていましたよね。それを受けて「大学はバーベキューをやるべき空間ではない」とか「火を使うのは危険だ」といった批判意見がTwitterで見られたけど、なぜそのように考えるかということの根本的原因を探るべきです。なぜだと思います。

A:やはり大学は勉強をするための施設であって、バーベキューをやりたければ公園なりキャンプ場なりに行くべきだと考えているからですよね。そして火の不始末があっては危ないでしょう。

Я:ではなぜ公園、特にバーベキューが許可されたスペースだと思いますが、そこなら良くて大学のキャンパスでは許可されないんでしょう。肉や野菜を焼いて食ったり、あるいはカセットコンロで鍋をやったりするぐらいのことに、なぜ他人の許可が必要なんでしょうか。

A:公共空間はみんなのものであって、その公共空間には大学当局や公園事務所といった管理者がいるのだから、そこに許可を取ることにそれほど矛盾を感じないのでは。みんなのための空間を使うのだから、そこを管理している人の許可がなしになにをやってもいいというわけではないでしょう。

Я:そこなんです。いま管理者というワードが出ましたよね。公共性というものは利用する人各々の取り組みによって担保されるべきであるはずで、ボトムアップに支えられるはずのものなんです。管理者とはそういう人たちから委託を受けて選ばれた人であって、その土地の所有者ではない。本来は公共空間の管理者というのは、民主的に選ばれた代表者でなければならない。それが現代では、管理者が公共性を上から利用者に与えることによって保たれているという、一種の権力勾配が生まれていることが当たり前になっている。それって本当に公共なんですか、という話です。

A:それは日本の公共、西洋から輸入された"Public"という概念の和訳なわけですけど、それが本当に存在し得るかという話に結び付いてくるのでは。「公共」とは「個」や「私」に対置される言葉であり、社会全体で公共空間を共同所有することで「個」や「私」の利益が実現することができるということですよね。それが日本では、公共性や公共空間というのは「お上から与えられたもの」ぐらいの感覚で取り扱われている。それでは"Public"はいつまで経っても実現されない。

Я:やはりそこが問題であると考えています。繰り返すようですが、公共性とはそれを利用するそれぞれの個人の取り組みによって承認されるものであって、特定の管理者による裁量で決められてはいけないんです。それはもはや私有された空間と変わらないでしょう。それが大学のキャンパスや公園と、キャンプ場の大きな違いです。まあ、こんな議論は20年以上からストリートの実践のなかで取り組まれてきた話なんですけど。

A:うーん、とはいえ火を使うのはちょっと危険な気もするなあ。もし火事になったらどうするんです。

Я:じゃあ逆に聞くけど、バーベキューやカセットコンロで火事になった例がいくつありますか。これはめちゃくちゃレアケースで、たまにニュースになるかならないかぐらいのものでしょう。ですから、「火事の危険性」なんていうのはそれを止めさせるための口実でしかないんです。「やるなら防火対策はしとけよ」ぐらいならわかるんですが、「だからダメだ!」ってなるのはちょっと論理が飛躍してますよね。

A:こういうことは結構色んなところで見られますよね。たとえば吉田寮が耐震性を理由に当局からの廃寮攻撃に遭っていたり、蚊取り線香をしているホームレスに対して火事の危険ということを理由に排除がなされたり。

Я:公衆衛生とか公共の福祉の名目で、人間がなんらかによって管理されることが常態化している。まさしくこれってフーコーのいうところの生権力ですよね。特に社会全体がネオリベ化するなかでより一層強まっていることは色んな人が指摘しているところであって、現代においては生権力によって支配される領域がどんどん広がっている。この最前線にあるのが、やはり大学改革だとかガバナンス改革だとかネオリベの理屈に振り回されている、大学のキャンパスという空間なのではないかと思います。ネオリベが公共空間を縮小させてきたことを考えると、まあ当然の帰結ではありますね。これもまた、さんざん擦られた議論だけど。

A:毛利嘉孝の本でも読んでおけって感じですね。中大とかでもそうだけど、なんでだめライフのみなさんは公共性に回帰することが好きなんですか。別に一人でだめライフを送りたければ、家から出ずに布団の中から蜂起しててもいいじゃないですか。生存は抵抗なんだから。

Я:やはりネオリベに染まりきった現代の価値観ではカネにならない公共性なんて知らねーよ、それよりも稼いで勝ち組になれよという観念に支配されていると思うけど、これって全然だめライフじゃないどころか、もはや敵じゃないですか。そういう規範意識なんて一抜けた、こっちは好きにやらせてもらうもんねというのがだめライフの立場なので、そうなると「だめがだめでいられる」ためには公共性を回復しなければ居場所がなくなってしまう。なんでもかんでも消費主義、合理主義の理屈では「だめ」な人間なんて許されないし、公共空間でカネも使わずにダラダラしてることなんてもってのほか。だめライフはそんなくだらない生き方はしたくないというスタイルなので。

A:確かに「だめ」でいるためには、競争主義の外にある空間にいなければならない。それは公共空間で鍋をするとかデモや集会をするとかいう物理的領域の話だけではなく、観念的な領域においても同様にネオリベ的な価値観から脱却しないといけないはずです。競争主義社会に疲れて挫折してしまう人は結構いると思うけど、そういう人って自分を責めてしまって病んで自殺をしたり、どうしようもなくなって犯罪に手を染めたりしてしまうわけで、やはりこれは健全ではない。そこで「だめがだめでいられる」という開き直りのライフスタイルがあるんだということを提示することで、ある種のアジールを作ることができそうですね。

Я:ですから、公共空間にわざわざ集まるのは、路上鍋によって私たちの公共性を物理的に取り戻すんだという取り組みでもありながら、「だめがだめでいられる」ためにネオリベ的な価値観なんて抜けてしまおうという実存的な試みでもあるわけです。そしてなにより、路上鍋でも路上飲みでも、公共空間でなにかするということは通りすがりの人と一緒に飲み食いして交流することができるという開かれた行為ですよね。やっぱり閉鎖的になってはエコーチェンバー化してしまうだけなので、いろんな人と関わることができるほうがいい。そういうところもあってこういうことを企画しているし、実際にやってきた人も多く存在するんだと思います。

 

〇「反戦と生活のため」はなぜか?

A:ここまで路上鍋を実施することの意義について考えてきたけど、それならただの路上鍋でいいじゃないですか。なんで名前が「反戦と生活のための路上鍋」なんですか。正直言ってサヨク臭さが隠せていないですよ。

Я:まずはじめに言っておきたいんだけど、これの元ネタは関西で2005~2011年ごろにかけてデモや抗議行動をやっていた「反戦と生活のための表現解放行動」というグループから取っているということです。正直これがどういう系譜にあって、どういう人たちがやっていたのかはあんまり知らないんだけど、まあ2000年代に入ってサウンドデモというのが活発になった時期があったんですね。そしてサウンドデモがプロテストする対象とは、原則的に「戦争反対」と「路上解放」だったんです。私はこういう理念に強く同意しているので、「反戦生活」を使うことにしました。

A:なるほど、確かにこのへんは「だめ連」「法政の貧乏くささを守る会」「素人の乱」の系譜から位置づけられる運動ではあるね。そうすると一応は、そのへんから影響を受けた(と中央大だめラが言っている)だめライフの活動にも結び付いてくるものではあるのか。

Я:色んな考えの人がいるからだめライフとして全体像を語ることはほぼ不可能なんだけど、まあだめライフ左派としてはこういう運動に結び付けておきたかったんですよね。てかゆくゆくはみんなこういう方向性に行くべきだと思ってるし、全国のだめライフ愛好家が集結してだめライフデモとか一発やった方がいいんじゃないかと思っています。

A:そんなこと言ってたらノンセクト活動家のポジショントークとか言ってまたバカにされますよ。でも、完全にノンポリの路上鍋よりかはなんらかの主張があった方が来る人にとっても分かりやすいのではないかとは思いますね。

Я:前の対談の後半でも言ってるんだけど、だめライフという運動は「ポスト=レフト・アナーキズム」に位置づけられると思っている。つまりあまり真面目な左翼チックなことをやるのではなく、どうせやるなら楽しいことにしようぜという立場なんですね。もちろん自分は真面目な左翼の集会やデモにも参加するし、その必要性はよく理解しているつもりなんだけど、だめライフという枠組みでやるならば鍋を囲んでみんなで交流するような集会にしようと。

A:でもやっぱり、それってだめライフの文脈でやる必要が本当にあるんですかね。別にだめライフと名乗らなくても、既存の左翼運動の枠組みでやればいいんじゃないですか。なんだか加入戦術みたいですよ。

Я:中大だめラとかはちょっと左翼運動から距離を取りたがっているみたいなんだけど、やっぱりだめライフの系譜を考えるとそこに位置づけざるを得ないと思うんです。さっきも確認したように「だめ連」や「素人の乱」の影響を強く受けているということもそうなんだけど、やはり「だめがだめでいられる」ためには個人の頑張りでは限界がありますよね。「じゃあ俺は好きにやらせてもらうから」だと「そうですか」で終わっちゃうけど、「こういう訳わかんないやつが増殖していますよ」だと影響力を持つようになる。これが中国の寝そべり族の基本的な発想であって、やはりこれはムーブメントでなければならない。そして『寝そべり主義者宣言』第四章「寝そべり主義者の盟友」で「既存の秩序に対する大いなる拒絶を実現するには、個人主義ではない繋がりが肝心なのだ」ともあります。そのなかで盟友として挙げられている具体例として「保守的な秩序ではなく急進的な変革を主張する理論家と活動家」があるように、やはりだめライフは「ポスト=レフト」でありながらも、既存左翼の盟友としてやれることをやるべきだと思っています。

A:いつものノンセクトの仲間で企画するのもいいけど、あえてだめライフの枠組みでやることに意義があるということですね。確かにこの前の「高円寺番外地」イベント最終日の「全部に反対デモ」でも、インボイスいらねえとか入管の暴力やめろとかそういう主張もしていたみたいだし、結局は左翼運動の傍流に位置づけることができると。

Я:そしてだめライフがライフスタイル的な運動であるから「生活」の方はそれほど違和感はないと思うんだけど、やっぱり自分として押し出したいのは「反戦」ですね。2022年に始まったウクライナ戦争はまだ集結する目処は全然立っていないし、いままさにガザ地区イスラエルによって侵攻されようとしている。日本は日本で、原発汚染水をめぐって中国など周辺諸国と関係が悪化している。いまが第三次世界大戦の危機という人たちもいるけど、これはあながち間違いではないと思っています。

A:ウクライナ情勢やパレスチナ情勢をめぐって、日本でも反戦運動が最近激化していますね。でもさすがに「ポスト=レフト」なだめライフであっても、真面目に反戦集会などに行くべきなんじゃないですか。戦争情勢では「だめがだめでいられる」とか言ってられないですし、いまこそ闘わないといけないですよ。

Я:まあ一側面としてはそうだと思うし、国内外で反戦運動をしている人たちはすごく大切なことをしていると思う。「だめがだめでいられる」ためにはあらゆる戦争を拒絶しなければならない。戦争は私たちのことなんて聞いてくれやしないからね。でも考えてみれば戦争というのは国家が起こすもので、民衆はその国家の理屈に巻き込まれて戦争に駆り出されたり、もしくは好戦的なムードになったりするでしょう。そのためにはそもそも戦争を拒絶するという態度を取り続けなければいけないということもあるんだけど、草の根から民衆が連帯する必要がありますよね。その根幹を本当に支えるのは、まずは身近な人と交流をすることだと思うんです。ですから「反戦鍋」をやりたいんです。

A:ライフスタイルに焦点を当てているだめライフという運動であるからこそ、そのライフスタイルが破壊される戦争に反対すると。確かに集会やデモ、大使館への抗議行動といった直接行動によって反戦を訴えることも大事なんだけど、もっと身近な人と戦争反対の思いを共にすることから反戦運動は始まるということですね。

Я:昨日一緒に鍋をつついた仲間を殺すことなんてできないでしょう。そういう本当に手の届く、半径2メートルくらいからの交流こそが戦争を抑止するために必要だと思うんですね。そしてそういう取り組みは私たちだけに限らず、色んなところで起こるとなおさら良い。特に立命館は留学生も多いので、国籍や人種やジェンダーを問わず、色んな立場の人が来てくれて交流することができたらと思っています。たとえば日本と中国で政府同士が仲悪くても、人民同士で連帯することは絶対に可能だし、なんならそれが必要なわけですから。

A:「だめがだめでいられる」ためには人々の交流を通じて虚心坦懐に話し合うことで、お互いに憎しみあうことを避けなければならない。そしてそのことが戦争を抑止することにつながるのだということですね。では最後に、どういう「反戦鍋」にしたいと思っていますか。

Я:ヴィーガン対応にしているのは、やはり幅広く人に来てもらいたいからです。肉か魚を入れた鍋も用意するかもしれないけど、一つはヴィーガンの人が食べられるようにすることで、そこから排除されることを防ぐ。またムスリムの人も来れるように、豚肉は使わないつもりです。誰も排除されることなく、みんなが集まれるような鍋会にしたいと思っています。もちろん趣旨に合っている内容であればプラカードなどを置くのも大歓迎ですし、自分もFREE PALESTINEのプラカードを作ろうと思っています。まずはこのように戦争の危機が叫ばれている時代だからこそ、人民同士の草の根からの結びつきが大切です。圧倒的に多くの人民の結集を呼びかけます、と言いたいところですが、家庭用の鍋2つくらいしか用意してないのであんまり多く人が来たら食べられないかもしれないですね…。ありがとうございました。