yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

「だめライフ」概論

※こちらの文章は「アナキズム」紙に掲載されたものの初稿です。

 

 ここ半年ほど、SNSを中心に「だめライフ」を名乗る団体や個人が全国規模で増え続けている。その数は現在40以上にもなり、大学や地域における「だめライフ」のサークルを作って仲間を集め、SNSで日々活動内容や思うところを自由に発信している。ブームの発端は「中央大学だめライフ愛好会」がアカウントを作成したことにあり、彼が「だめライフ」として提唱するライフスタイルや活動方針に賛同した者たちによる「だめライフ」の独自解釈で続々と拡大しているようだ。キャンパス内の空き地に勝手耕作をする、フリーマーケットを開催する、キャンパス内や「トー横」「グリ下」で路上飲み会を開くといった一見すると非政治的な活動がメインではあるが、系譜としては首都圏や関西をはじめとしたノンセクト系の運動に位置づけられる。

 特に統一された思想や方針、あるいは綱領などがあるわけでもなく、各々が好き勝手に「だめライフ」を名乗っているので全体像として総括することは不可能に近いのだが、一点共通項があるとしたら「だめがだめでいられる場所」をコンセプトとしていることにある。「だめ」とはシンプルでありながら重層的な意味をもつ言葉であるため人それぞれの解釈に分かれるだろうが、さしあたりここでは「だめ連宣言!」における「家族・学校・会社・社会・国家から「だめなヤツ」と言われる可能性のある事柄一般の総称」の定義に則っておきたい。新自由主義やグローバリゼーションを受けて末期資本主義にあるとも言われる現代において、ますます雇用や生活は流動化・劣悪化する一方で、社会から「だめ」な人間を包摂するほどの余裕がなくなり、人々は先の見えない不安定な状況に身を投じることになる。「だめライフ」の中核にある大学生は少なからずその状況を肌感覚で察知しており、「だめなヤツ」になれば野たれ死ぬぞ、ウダツがあがらないぞという観念を小さいころから植え付けられている。一方で日々強まりつつあるそのような社会的圧力に適合することができずに「脱落」するものも少なからずおり、その大多数は社会的ネットワークに接続できずに孤立することを余儀なくされている。そこであえて「だめ」さを肯定するコミュニティを築き、脱資本主義でオルタナティブな生活を目指す一種のセーフティーネットとしての「だめライフ」が出現したことは決して特殊なことではないだろう。

とりわけて、かつての「だめ連」「法政の貧乏くささを守る会」の影響を受けており、神長恒一氏や松本哉氏らと交流をもつイベントも企画されている。当時とは時代状況は異なるものの、ただでさえ未来に希望が見出せない「失われた30年」の閉塞的な状況にプラスして、2020年以降のコロナ禍による管理社会の強化と学生文化の断絶・消滅という局面において、「だめ」とされる生き方や言動に焦点を当てて抵抗する運動が独自にリバイバルすることは社会情勢に要請されているとも言える。あるいは、競争社会化と寡占が著しい中国において発生した長時間労働の拒否と低消費な暮らしを志向することで資本家による搾取に抵抗する「躺平主義(寝そべり族)」の広がりや、アメリカにおいて「Unemployment for all, not just the rich! (金持ちだけではなくすべての人に失業を!)」のスローガンのもと多くの余暇を得て人間らしい暮らしをするために長時間労働や大量消費社会を拒否する「Antiwork」ムーブメントが巻き起こっていることを考えると、「だめライフ」はグローバルに広がる反労働運動の潮流の一つに位置づけることも可能である。

このように労働の忌避や「怠ける権利」によって「だめ」さを肯定するほかに、かつてのように再び公共空間に回帰していることも特徴として考えられる。多くの大学キャンパスは既に学生の手によって自由や自律を獲得できる空間ではなくなっていたが、コロナ禍による大学封鎖は更にそれを加速させた。一方でコロナ禍では飲食店が休業したことにより「路上飲み」が人口に膾炙したが、渋谷区をはじめとしてそれは既に社会問題化され、規制するべき行為として行政に扱われている。そこでゼロ年代を中心にストリートを取り戻す運動が盛り上がったように、コロナ感染対策やSDGs、あるいは都市再開発を騙って公共空間が縮小し、消費空間化しつつある現在の状況に対して直接的・間接的に抵抗するための取り組みが求められている。「だめライフ」各位はこのことが「だめがだめでいられる場所」を守ることであると直感しているため、時代錯誤的であると思われようとも路上鍋やキャンパス内バーベキューによって公共空間に再び人々が根付くための活動を繰り広げているのである(時として弾圧を受けることもある)。

最後にアナーキズムとの関連に触れておきたい。ここまで述べてきたことはボブ・ブラックが労働を廃絶して「ばかの革命(ludic revolution)」を提唱したことや、ハキム・ベイが権力の管理から免れた「一時的自律ゾーン(TAZ)」の可能性を示したことに結び付けられるように、「ポスト=レフト・アナーキズム」な思想に置いて考えることができる。これは快楽主義、個人主義ユートピア主義的であり批判されるべき点は多いのだが、「だめがだめでいられる場所」というライフスタイルに根差した創造力によってアナーキーを実現する可能性に近づいていると考えることもできよう。「だめ」な個人が解放されること無しには相互扶助的なコミュニティや自発的協力関係を築くことは不可能であるとするならば、「だめライフ」はまずは個人とその周辺にある範疇から社会変革へとアプローチするための運動であると位置づけられる。これからの趨勢を見守っていきたい。