yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

対応に困るんだよ

本来こんなことしてる暇はないし、相当に切羽詰まった状況なんだけど、もう何もかもどうでもよくなって日々を消費してる気がする。n浪大学受験失敗兄貴とか呼んでくれ。


まあなにか結果がでてるわけじゃないし、なんなら本丸の国立が数週間先には残ってるんだけど、もう既に無理だな〜のおじさんになってるので恐らくは駄目なんだと思う。この数年なんだったのかな。


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いまのうちから総括しておくと、自転車を手に入れたことによる放浪癖の悪化とネカフェ浸り、また飲むと心身に特定の効果を表す飲料に溺れたのが原因なんだろう。
この一年で、やけにふくらはぎに筋肉がついた気がするし、快活clubのポイントが貯まったし、ボーッとしている時間が増えた。要するに、やってる感を出して、また自分にもなすべき事をやっていると言い聞かせながら、その実ただのニートと大して変わらない毎日を送っていただけである。


別に注意欠陥とかそういう類いの病気の兆候はないし(あるとしたら誇大妄想とか自意識過剰の部類だろう)、ただの危機感も焦りも覚えることはなくて、どうにかなるだろうと楽観的になりながら変に大切なものを捨てる気もおきない一般人だったという証左になっただけだ。結局僕は健常者だと身に沁みてわかる。


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普通に知り合いと雑談していて、「うわぁ〜…」みたいな微妙に笑えて、かつ相手は僕を蔑むことで適切な距離感を保つような反応を引き出すために、あえて不謹慎だったり気色の悪かったりする発言をするというコミュニケーション術がある(勝手にやってる)。例えば脈絡もなく昭和天皇の戦争責任の話をしたり、麺や肉を食べながら人間の寄生虫や皮下組織の話題につなげたりだとかそういう(さすがに相手は選んでいるが)。


往々にして、それは会話の箸休め的な効果があって、またそれでマンネリ化した空気を一掃できたりもする(気がするだけかもしれない)。これで特に敵を作った記憶もないので、まあまあ有効なのかなという気はする。


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ここで問題なのが変に乗ってこようとする人で、大体よくわかっていないのに勝手に無理な解釈をしてキャッチボールの球を放ってこようとする。一息つくためにポイと投げた台詞にそれ以上の価値はないのであり、それを拾われても逆に「こいつなにいってんの」としか思えない。


恐らくこれは商店のおっちゃんがお釣りで「はい300万円ね〜」だとか「兄ちゃん今日も男前だね〜」だとかそういうクソつまんなギャグを挟んでくるときの感覚に似ていて、反応してはならない暗黙の了解がその場にあるのである。昔から関わりのある仲がいい人でもそこの匙加減が難しい。


一般的に盛り上がる会話が理解できず、本屋にある「超一流の雑談力」的な本を立ち読みしてみたが、あれを全て実践したら本当に上っ面だけ綺麗で人にあわせて優柔不断に態度を変える、ペラッペラな存在になってしまう気がした。でもそれが一般的な人の会話であり、タテマエで武装して自分の内面にある狂気をいかに見せつけないかという戦いが社会の場なのかなと思うと、地獄よりも空恐ろしく感じた。


SNSを綺麗な使い方をする大半の人は武装している表面の極一部を見せつけているだけにすぎないが、本音を垂れ流しているようなツイのオタクもその実「ヤベー人」「毎日愉快なことをいう人」の武装を身にまとって、真の狂気だけは顕にしないようにしている。むしろそういう人のほうがその傾向は強い。


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自分で書いてて思ったけどさっきのテクニックとしておかしいかもしれないですね



よかれと思ってブログに適当なフリー素材をアクセントのように貼り付けているんだけど、これは果たして意味はあるんだろうか。文字が多い、読みづらい(これは僕の文才のなさ)、冗長すぎるなどなど色々言われているが、間違った方向にアップデートしてる気がしなくもない。


あと恐らく数日から数週間後には新しくネタを投下できそうな気がします。ほぼ自己満足でミリマスの考察をしてみただけですが…。


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朝からマクドナルドでダラダラ書いてた。久しぶりに来たな

誰の事も恨んじゃいないよ ただ大人たちに褒められるようなバカにはなりたくない

1月2日 目覚めに突然「内申点を稼いで指定校推薦受けるために興味もない文化系クラブの部長をやってた」と悪気なく話してくれた小学校時代の知り合いを思い出してモヤっとした気持ちになりました 好きこのんで校内でもトップレベルで評判の悪い部活のヒラを3年やってた俺はなんなんだろう まあ健常の者も生きづらそうですね

 

親戚との関わりが皆無なので年末年始だろうと家族以外と顔を合わせることはありません 最後にお年玉を貰ったのは父方の婆さんが亡くなった年だからもう10年前ぐらいになります 私は普段敢えて人の道から外れた感じを出して粋がっている一般健常者なのですがこういうとこはマジで人並みに揃えてほしいです 拝金主義者

 

初詣行こうと思うのですが正しい作法(二礼ニ拍手一礼的な)をする意図と必要性が全く感じられないです あれいつから根付いた文化なんですか 神なんか存在しないとはみんな思ってるんだから やるなら賽銭放り込んで鐘を鳴らして手を合わせるだけでいいでしょ 要は気持ちの問題ですよ 土着信仰ぐらいはあるのかもしれませんが私には故郷がありません

 

さいころは手を合わせてるときには虚心坦懐に拝めたんですが 高校生になったぐらいでは「こんなこと言っても無理なんだな〜」と靄がかかっていて自分の願いがわからなくなりました まあ今年こそはとは思ってたのですがやはり完全に集中するのは無理でしたね おみくじは一応大吉でしたが去年のやつがことごとく外れてたので信用してません それではまた会う日まで



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例えば発火するチェーンロック

みんな、げんきかな〜??おじさんはそこそこげんきだよ〜!!「そうじょうたい」ってやつらしいね〜!!!


ここでみんなにクイズだよ〜!!!
きょうとしをながれる「かもがわ」のまわりにある、いろんなくにのことばでうたいながら、きれいにまちをおそうじしてくれるいきものって、な〜んだ??


おもちゃのへいたいさん?ざんねん、ちがいます〜!このくにはぐんたいをもつことはできないんだよ〜!!

 

 
京都市の放置自転車対策。
数カ国後で「放置自転車の撤去作業を〜」だのバカみたいに間延びした声で喚き散らすスピーカーを備え付けた軽トラ。まだ維新政党・新風街宣車の方がマシだわ。人の神経を逆撫でするようなあの言い回しヤメロ。


放置自転車の対策自体は色んな自治体がやってるだろうが、京都市は特に厳しい。厳しいなんてもんじゃなくてもはや狂気の沙汰。趣味でやってんのかってぐらい意気揚々と路上にある自転車を持って帰る。ググってみたらサジェストに「むかつく」「邪魔」が出てくるので、それなりに被害に遭っている人はいるのだろう。


実際に三条大橋周辺を歩いてたら頻繁に“奴等”を見かけるし、撤去作業をしてる瞬間を目撃することもある。
一度見かけたのが、コンビニの近くのフェンス脇に自転車を置いて(レンタサイクルかな…?)店に入っていった外国人数名の例。にこやかに商品を選んでいるたった数分の間に“奴等”が襲来して、「してやったり」の顔でバカアホクズオンボロファシスト軽トラに積み込んでそのままマヌケ音声を垂れ流しながら去っていった。当然、店から出た外国人たちは大パニック。そのあとどうなったのかは知らないが、とんでもなく不安で狼狽したことだろう。可哀想に。


カゴにビラを入れておくとかテープを貼るとかいくらでも置いてある自転車を警告する方法はあるだろうに、“奴等”は問答無用でそこにあれば回収していく。チェーンがついていれば、拷問でチンチン切り落とすデカい鋏みたいなやつを振り回してぶった切る。置いていた人に弁明のスキも与えずに持ち去る。これを所有権の侵害と言わずしてなんと言えるか。


おっさん2人が「放置自転車対策強化中(だったかな)」のタスキを錦の御旗のごとく翻して軽トラに載せている光景はもう見ていられるもんじゃない。さぞかし気持ちの良いことなんだろうな。俺はアレを見てホテル・ルワンダを思い出したね。



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「自転車がじゃまで通れないよー」じゃねえんだよ。行政の連中はこんな所狭しと自転車が置かれてる構図をイメージしてんのか?1台でも置いてりゃ持っていくバカみたいな締め付けしておいて、悪いのは置いている側の人間ですーと開き直りよって。
度を越したそのやり方を「公共の場所の機能の保全」「良好な都市環境の形成」という大義(京都市自転車等放置防止条例より)で正当化出来ると思うな。ついでに、こういう場合の「被害者」として女児・老人を持ち出してくるその浅い魂胆が気持ち悪い。


確かに放置自転車は度を越せば危険なものだし、迷惑がる市民が出るのも十分に理解出来る。実際それ自体は我々が対策せねばならないこと。しかしながらさっき示した具体例の通り、ずっと放置されているわけでもなく一時的に置いてるにすぎない自転車までも捕捉した瞬間ノータイムで持っていくのは完全にどうかしている。実際こういう事例はかなり多い。そもそもなんで路上に駐輪しなきゃならんのかということを考え直せ。
それでも、と言う諸君は一度京都市のその現場を目にしてから言ってくれや。ついでにバカ高い京都市営地下鉄の運賃やら、やけに職質をカマしてくるマッポやら(これは私だけの話かも)、観光案内の不完全さやらも見ていってくれ。「死ねどす」メンタリティはこういうとこに顕在化する。


「公共の場所」について権力がどうこう言うのであれば、我々は公共の場所とは一体誰のためのものかと断固として反論を叩きつけねばならん。そもそも路上喫煙の全面禁止とか渋谷でのハロウィンの禁酒とか、あるいはいわゆる「排除アート」といったところにも現れる、この現代社会の息苦しさや窮屈さを我々は許容する理由はない。勝手な横暴に手をこまねいて「あゝ御国のお蔭で住みよい世界が作られるなあ」と思い込むタダの模範囚的な道徳なんてクソくらえである。合理的で規律正しい社会など押し付けられた箱庭にしかすぎない。我々の!手で!!秩序を破壊しよう!!!

地下鉄に乗れなくなった

城ヶ崎美嘉になりました。




私はこの上なく下賤な人間であります。そんなこと分かりきってるよチミ、早く次の話題に移りたまえよと思った諸君、なんてものも一人とて存在しないことは重々承知しています。いい加減所謂ブログとやらを消したいです。踊ってない夜を知らない人とかこの世に一人もございません。


視界に軽蔑という名の包丁が見え隠れしていて、これはきっと私の喉の奥深くまで刺しこまれるために見えているものに違いありません。喉仏がそのままコロリと出てきてしまうのって、ある種のチャップリン的な喜劇だなあと思ったりしませんか。DMMで“喉仏”で検索したらそこそこエグいイラマチオ動画が出てきます。軽蔑包丁はなにもしなくても的確に喉を刳りにくる性質を持っているはずなので、気づけば寝室でAnotherに出てきた生徒の前で自殺した担任教師と同じく、失敗作のマーライオンみたいに鮮血を撒き散らしながらキーボードに向き合う羽目になることでしょう。京都市内で何者かに頸動脈を刺されて死亡した無職のニュースが流れたらそれは私の自殺だと思って下さい。勝手に喉に刺さる包丁なんて実在するはずがありません。


このページにたどり着く人間は間違えてリンクを踏んだ人間か、とりあえず付き合いで流し読みしているようなTwitterから飛んだ人間くらいしかいないのです。ここまでの内容を要約出来るほど読んでくれた人間が如何ほどいるでしょうか。もしそれが可能な人間がいるなら、早急に私と共に死ぬべきです。選民思想といったものが血反吐が出るほど大嫌いなので、人類が平等に消えるか私が消えるしか解決策は存在しない気がします。誰も期待していない文章で、こんな人間に高尚なエレメントの詰まった文章なんて書けるはずもなく、私にはなにも情動(パトス)を抱いてはいけません。虚無の犠牲者となるのです。人が嫌い 世界嫌い 言葉が嫌い 過去未来 怖い 怖い 怖い


きっと頭のよい諸君は、ここまでの要領を得ない駄文に飽き飽きしてブラウザバックするに違いないのです。最早、この文字列を映し出す液晶パネルは私のPC以外にこの世には存在しません。この時空において私以外は存在しません。つまり、この世界は私のものという宣言とイコールになります。これが私が神である、もしくは神と同等の存在であることの約やかな証明です。スピノザによれば延長するもの及び思惟するものは神の属性の変状だ、とのことなので、言ってしまえばこの文章自体が神の一部なのかもしれません。園崎詩音になりたいです。


そして人間が生きることは死に向かうことですが、神は生きながら死んでいる状態にあるので、私は風呂場で腐乱した死体と同じです。つまり、私以外存在しない世界でただひたすら風化するのを待つのみですが、都会の喧騒を燼滅掃討してようやく手にした桃源郷なので、それはきっと贅沢なことです。もし死体に意思があったとしたら、徐々に腐敗しゆく己の肉体を見てなにを思うのでしょうか。人生を無為に徘徊するオタクとは全然別物の腐敗なので、一生理解出来る日は来ない気がします。この流れだから言うと女の子よりも女の子の格好をした男の子の方が好きなのでフォロワーはどんどん私のDMに送って下さい さて このへんで導入は打ち切りましょうね


本来ブログって「旅行に行った」とか「ゲームで好成績を出した」などの具体的なテーマで書くものだと思うのですが、無職青年の一日は社会性不安と自家撞着で成立しているのでマジで中身のない文章しか湧いてきません。それとも、「自転車に乗りました」「煙草吸うならアメスピはやめとけ」みたいなクソどうでもいい日常のレビューを書くべきなのでしょうか。望みなどはあったでしょうか。二郎系以外の食べ物から味を感じられなくなりました。
そして大抵が奇麗なイラストや写真、もしくは簡潔に纏めた文章を掲載するものだと最近気づいたので、バカみたいに4000字も5000字も書いてる体験記なんてものはブログ記事とは呼べない気がします。好きに呼んでやって下さい。フレデリックの「DNAです」を聞いて「そうか、DNAなのか」と納得してスマホの画面を叩き割りました。


社会不適合者オタクなので当然、世間様から白い目や罵声や石礫や火炎瓶を浴びせられるのには慣れていても、どうもその中に自己を殺して入り込むとのっぴきならないならない憎悪と嘲弄をヌメヌメと感じます。小学生がよくやる、標的に気づかれずに背中に「マヌケ」とか書かれた紙を貼って、周りから底意地悪い笑顔を向ける、そして本人も合わせてヘラヘラ笑いながらもどうして笑われているのか分からない、そういった薄気味悪さを周囲の視線を痛いほど感じるわけです。朝の電車に乗っている人は、全員無関係なふりを装っていても根本は一つの生命体として私の精神を削りに来るために存在していると思います。


人混みにいると精神摩耗し自己嫌悪に苛まされ、ついには発狂死する独自の生態系を持つことは「小学館の図鑑NEO」に書かれてるレベルの常識で、「おたくのいきざま」ページでこれでもかと罵倒されていました。死体に集る無数の蛆虱のような百鬼夜行と、脳に直接電磁波攻撃を仕掛ける無数のフラッシュが正気を失わさせます。半分冗談でなわとびで首を吊ったことがありますが、数秒も経たないうちに目の前が真っ暗になるので案外すぐに記憶を飛ばすものなのでしょう。背後には無数の目と触手を持ちこちらを指さして歯をだして笑っている一つのバカげた化け物が確かにそこにいます。正直殺すならさっさと殺してくれた方が楽なのです。辛いこつた辛いこつた!


地下鉄という現代のカタコンベはある種独特の負のオーラを纏っていて、埋葬された遺体の代わりに自殺しようとする人を、盗掘された遺品の代わりに性欲を満たす痴漢犯を、隠れていた異教徒やゲリラの代わりに囂然たる足音や喧噪をその内に匿っています。それでいて、各々の人間があらぬ方向に目をキロキロと向け、少しでも周りに危害を加えようと切磋琢磨しているわけです。映画メトロポリスのように、完全に同じ動きをする人間だけならどれほど気が楽だったでしょうか。実存主義の観点によって警鐘を鳴らされてきた公共な世界での生活に埋没する頽落的な生き方は、皮肉にも現代において最も快適なスタイルにまで成り上がってしまったのです。
突然歩いているのに立ち止まる、混んだ改札に引っかかって流れを停滞させる、盲目かのように目の前を突然横切る、階段だけ物凄い勢いで駆け降りる、といった大衆による行為は、すべて私を殺そうとする群集心理の片鱗ではないでしょうか。それでいて、恐怖感のみを与えて息の根を止めようともしないのが気持ち悪さを増長させています。生きるのが辛く、苦しくてしょうがない人間がこの世の大半を占めていると勝手に思っているので、それなら朝の改札で集団自殺をしても一種のエンターテイメントになるに違いありません。もし周りにいる30人が一斉にナイフで首を突き刺して自殺したら、残された群集はどうするでしょうか。間違いなく、ナイフで将棋倒しのように自殺の連鎖が続くでしょう。


そしてきっかけさえあれば死のうと思っている人間の集まりは、時としてベクトルが違えば1人の人間を殺す方向へと舵を切ります。そして、今がまさにそのときである気がしてなりません。もしかしたら、私たちの気付かないところで無意識の殺人に加担している可能性すらあるのかもしれません。あなたたちは全員殺 突然やる気と時間を失ったので書くのを中断します


やはりブログというものは明確なテーマがないとなかなか筆が進まないものですね 次は中二恋聖地巡礼とかプロメアの考察とかFX必勝法とか明るい話題が見つかるよう努力します 二度とお目にかかることがないよう信じて祈って下さい さらば救われん