yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

観葉植物

 

お久しぶりです。特に理由もなく過去の投稿を削除したり突然閉鎖したりしていました。 最近雨続きだからか精神的にもヤバい日が続いているのでそっとしておいてください。

 

 

「ASMR音声作品で百合ップルの部屋の観葉植物視点のものがある」という噂を小耳にはさんだのでさっそくググってみたら、音声作品ではないのですがなにやら気になる作品があったのでさっそく読んでみました。

 

や、こういった切ない感情のシェイクでミキサーをかけられるみたいな体験は久しぶりのような気がします。大体百合作品って、一人称視点でお互いの感情にコミットして物語が紡がれていくものだと思うんです。たとえば「やがて君になる」であれば、主人公の小糸侑が誰かを特別に想うことが理解できないといった心情描写がストーリーの基軸なわけです(これが駄目だとかそういうことではない)。

しかしこの作品は、徹頭徹尾色々あって観葉植物に転生した姉が妹をめぐって起きる少女たちの群像劇を百合厨のメタ的な解説を踏まえつつ忠実に描写していて、新鮮でありながらも求めていたところにスッと入り込む感じがしました。

 

おそらくこういった作品を読む人だったら必ず考えたことはあると思うのですが、百合という概念そのものに対してどのように向き合えるのかという悩みはいつ解消されるのでしょうか。同性愛をただのコンテンツとして消費する価値観はさすがに不道徳かつ主体性がなさすぎるので可能性として排除したいですが、とはいえ百合はヘテロ的恋愛と異なるからこそ作品性があるわけで…。

ただ「あぁ~」と刹那の切なさに身をゆだねるという楽しみ方もあるとは思いますが、現にいま様々な作品を読んだうえで女の子同士がちゅっちゅしているというシチュエーションに対して自分はどのように対峙するかということを分析することで、さらによりよく百合の作品を位置づけることができるのではないでしょうか。

 

 別にヘテロ的恋愛作品を否定するわけではないのですが、どうしてもそこには自己投影するという性質が絡んでくるのではないかと思います。勝手なイメージですが恋愛映画を見に行く人の大半はロマンティックな状況を自分に当てはめているでしょう。しかしそこに自分の入る余地はなくそうであるべきでない(いわゆる神の視点、ただし神は存在しない)シチュエーションの場合、純粋にその関係性と心情の動静を追うことができます。このへんが百合作品に臨む際の根底となっているのかなあと思います。

 

しかしそれはただの野次馬的な価値観にすぎないぢゃあないかと思ったら、そうあるべきでもないなと思う反面もあってなかなかふわっとした結論も出ないなという板ばさみの状態にあります。そのなかで、観葉植物という視点(完全な第三者ではない)がポイントとなっているこの作品は革命的であると言えるのではないでしょうか。

自分→百合CP の直接的な視点ではなく、自分→観葉植物→百合CP という介在された視点がそこに新たな意味づけができそうですね。知らんけど。

 

しばらく前ですが公開当日に「ランボー ラストブラッド」を見に行きました。あれはいいですね。1.8メートルもあるポスターもついでに買ってしまったので、毎日スタローンに見降ろされながら床に寝転がっています。圧がすごい。

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どうぶつの森 完全攻略

 

 

どうぶつの森シリーズの最新作がリリースされたらしい。自分はそもそもSwitchを持っていないのでそれに関して四の五の言える立場にはないのだが、シリーズとしてだけで言うとwii街へいこうよどうぶつの森 だけ小学生のときにプレイしたことがある。


どうぶつの森とはそもそもどんなゲームだったのか。自分はそこから既に曖昧だったので、WikiPedia先生に聞いてみた。

どうぶつたちが暮らす村にプレイヤーが移り住み、住人たちとの交流などを通してほのぼのとした生活を送ることができる。


ほのぼのとした生活を送ることを目的としたゲームだったらしい。


小学生ながらに自分は最初のチュートリアルとも呼べる『ローンを返済する』だとか『お金を集める』だとかいった行為に楽しさを見いだせずに、すぐにプレイしなくなっていた(姉はハマっていた)。

また操作方法さえもついぞ慣れることはなく、下にあるバーをAボタンで押してワッと出てくるメニューから必要な動きをするということがどうしても慣れなかった。日常生活でAボタンを押す習慣がなかったからかもしれない。

 

 


そもそも自分はTVゲーム全般が人並みにプレイできないし、スムーズに操作することさえおぼつかない。FPSや格ゲーといった瞬発力や洞察力が必要とされる(のかな?)ゲームはそもそも論外だし、3Dマップ上で相手の動きを読んだり自分の立ち回りを俯瞰したりすることが不可能に近い。

ポケモンファイナルファンタジーといったロールプレイングゲームなどは成長しながら継続する忍耐もない(上に、そもそもやったことがない)。音ゲーだって、目と耳で状況を受け取り脳が認識をして適切な指令を出すラグに振り回されて、ただの精度の悪いタスク処理と化してしまう。

なんなら、全年齢対象のマリオカートWii Sportsさえも取扱説明書が手元になければ不安だ。

 


そしてなにより操作以前に問題なのが、ゲームをプレイすることの目的を無意識に探ってしまうことにあるのではないかと思っている。「何がしたくてそれをするのか」「そうすることに何の意味がある」といった質問は、最も悪質で返事に窮する種類であるのは言うまでもない。なるべく自分にも相手にも投げかけたくないし、実際にそうすべきでない。

目的意識を見出して発展していこうというポジティブな思惑があるときを除いて、目的や意味を問うことは底意地の悪いニヒリズムやペシミズムに裏打ちされた身も蓋もない暴力性を備えている。

 


──君、どうしてそのゲームをやっているのかね。

どうしてって、楽しいからに決まっているじゃないか。

──画面内のキャラを自分と一体のように操作して相手キャラを叩きのめす。それの楽しさはどこにあるのかな。

勝ったときの達成感の得られる喜びや負けたときのもう一度という悔しさ、対戦中の駆け引き、どれを取っても楽しいだろう。

──でもそれは、仮想現実というデータベース上の情報にしかすぎない。君には直接なにも楽しみは残らないよ。

実際にゲームをやっているときは楽しいんだし、現実との線引きくらい引けているよ。一種の気分転換として楽しければいいじゃないか。

──君、本当にそれを楽しいと思ってやっているのかい。

なんだって。どういうことだ。

──ゲームを楽しんでいる、それは時間つぶしをすることに楽しさを無理やり見出して逃避してるだけにすぎないんじゃないかな。その楽しいひとときは、例えばやるべき課題、過ぎていく日々、そして自由からの逃避でしかないよ。

じゃあ、生産性のあることだけやってろって言うのか。あんたはつまらないな。

──いいや、一般的に生産性のあるとされることもね、その実意味なんてないんだよ。生命体が生きている意味さえもね。

そんなの滅茶苦茶だ。じゃあ僕はどうしろって言うんだ。

──私も君も含めて、自死しかないね。

こんな世の中もあんたも狂っている。もういい、僕は楽しい楽しいゲームに戻らさせてもらうよ。

 

これは任意の格ゲーの例だが、ゲームの部分を他のものに置き換えても、なんなら後半をあらゆる事象に当てはめても成立し得る屁理屈だ。ただの詭弁にすぎない。

しかし一方で、一挙手一投足自分の動作にこの問答が湧いてきてしまう。趣味も読書も勉強も仕事も、全てを自由と死からの逃避と言い切ってしまう暴力性をどうにか克服できないものだろうか(実際こんなことを考えている人は世の中にごまんといるだろうし、それを細かに考察して解決に導くべくして書かれた哲学書もたくさん存在するだろうが)。


そして、基本的にゲームクリアが存在せず自分で目標を立てながらプレイしていくスタイルであるこのどうぶつの森は、その暴力性を根本的に備えていてプレイヤー自身に常に投げかけ、理不尽さに打ち克ちアイデンティティを確立するべく村のどうぶつたちとほのぼのとした生活を送るという、大変扱いづらいシロモノではないかと思う。

生きていても先が見えず希望も持てない現実生活を、諍いや悩みが存在せず自分の好きなことができるというスローライフの体現として寓話的に、そして皮肉的に揶揄しているのがどうぶつの森の世界観なのである。そして楽しむべくして作られたその世界に、小学生のころの自分は身を投じることが恐ろしくて仕方がなかったんじゃないかなと思う。

 


そう考えたらこのゲーム、いまやってみたらハマるかもしれない。というわけで、どなたかSwitchを恵んでくれてもいいんじゃないか。ここまでの御託を並べる前に、本当に楽しめるゲームにまだ出会ってないだけかもしれないし。いま自分が持っているハードはWiiPSPだけです。なにか面白いゲームとかないかな。

女の子同士のCPのイラストや漫画を見てつい可愛いなぁと思いそうになるが、そのメンタリティは百合の間に挟まろうとする不倶戴天のオスへと繋がるものであり断じて許されるものではない。しかしキャラもシチュも尊いのは事実であり、我々は百合に対して真摯に向き合う方法を未だ確立できていない。

どうしたらいいんだよ

 

ラスト・アクトレスの時代考証

アイドルマスターミリオンライブ!のドラマCDのなかでも一二を争うほどのクオリティを誇っている、"The@ter Boost"シリーズ(以下TBと称する)のTB03に収録されている楽曲「ラスト・アクトレス」がテーマの劇中劇「屋根裏の道化師」というものがあります。簡単にあらすじをいうと、劇場ミリオン座で起きた謎の連続殺人事件をめぐって、劇団女優たちと支配人、それから探偵がわちゃわちゃするという「劇場サスペンス」です。 

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まァ60分というCDの尺にどれだけサスペンス要素とキャラの魅力が詰め込めるかがポイントだったのですが、謎解きやストーリー展開は構成上簡単なものにならざるを得ないとはいえ、真に迫るキャラの演技や「愛する人だからこそ手にかける」という殺人犯のサイコが贅沢に盛り込まれていて、アイドルマスターをよく知らなくとも十分に楽しむことのできる作品です。
 
ここで問題となるのが(特に二次創作とか)、このドラマはいったいいつの時代のどこが舞台になっているのか?という根本的な疑問です。他のTBシリーズはどちらとも現代のビーチバレー部と喫茶店だということが明確にわかりますが、本作品はあまり明らかにされていません。なんとなくノスタルジーな空気は感じるかなあといった風情です。
 
というわけで、キャラの発言やイラストから推測してみます。
 
 
① イベントコミュ
 
残念ながら、ミリシタのイベントコミュについては、現代のシアターアイドルについての話なので特に劇中劇に関するヒントの台詞はありません。ただ、現代作家よりも近代作家を好んでそうな(完全な偏見)百合子がめちゃめちゃ惹かれているので、なんとなくそのくらいの話なのか…?という気はします。
 
話のキーとなっている探偵ウォーカーくんです。探偵という職業の創始は、1850年アメリカのアラン・ピンカートンの建てた私立探偵局だというのが通説で、ここから近代的私立探偵の広く知られるところとなります(注・このピンカートン探偵局は民兵組織だったという説もある)。また、ウォーカーくんの被っている鹿撃ち帽はどう考えてもシャーロック・ホームズのオマージュで、ホームズの舞台は1880年から1914年までのイギリスです。さすがにホームズと同期と考えるよりも、彼もまたシャーロッキアンの一人だったと仮定するならば、この推理小説が流行った19世紀末よりあとではあると考えられます。
 
またどこが舞台なのかについては、登場人物の名前はいずれも英語圏に多いもので(モニカに関してはスウェーデンとかルーマニアの可能性もあるが)、ウォーカーくんがシェイクスピアの引用をしている点、また前述の鹿撃ち帽の点からも、ほぼイギリスではあると断定できます。ただし、ホームズと同じロンドンの話かはわかりません。もしかしたらバーミンガムとかエディンバラかもしれない。

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② ドラマCD
 
次に、本編のドラマCDに関して、いくつかヒントらしき台詞はあったので、それぞれ考えていきます。
 
Ⅰ.都会の鉄道(汽車)
開始早々、ウォーカーくんが「都会の鉄道というものは、なぜあれほどまでに難解なのでしょう…。」とぼやいています。かわいい。また後に、驚かされてウォーカーくんはつい方言が出てしまう(「いまのはお国の言葉かしら?」と笑われる)描写がありますが、さすがに日本における東京と石川ぐらいの訛りの違いがイギリスにおいてはどのくらい隔たっているのかは分かりません。適当に調べて出てきた、ノーベル化学賞受賞者のジョン・E・ウォーカーイングランド北東部ウェスト・ヨークシャーハリファックスという小さな街出身らしいので、ウォーカーくんもそこということにしておきます。
 
 
 
さて、イギリスの鉄道の歴史は長く、1830年にジョージ・スチーブンソンがリヴァプールマンチェスター鉄道を作ってから、ヴィクトリア女王のもとで20世紀までにはスコットランド含め全英に鉄道網が張り巡らされています。すでにこの時期には、イギリスの主要都市はウォーカーくんが二度迷うほど鉄道は発達しています。仕方ないね。
 
シンシアさんは鉄道を「汽車」と呼びますが、これが本当に蒸気機関車を指しているのだとしても、2009年時点でさえイギリスの鉄道電化率は40%程度なので、ましてやもっと前でも十分に蒸気機関車ディーゼルカーの可能性はあります。一応、一部で電車に置き換わりはじめたのは1960年代なのですが、先ほどあげたリヴァプールマンチェスター鉄道やロンドンを走るグレート・ウェスタン鉄道でさえ電化されたのはつい最近です。おばあちゃんがゲーム機を全てファミコンと呼んだり、いまだにロシアをソ連と言ったりするあの現象と見なさなくても、だいたいどの時代でも実際に蒸気機関車に乗ってウォーカーくんがやってきたと考えてつじつまはあいます。やや失敗か。

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Ⅱ.腹話術
ミルズ支配人は、リトルミルズと呼ぶ人形を使って腹話術をします(これが殺人のトリックとされたりもするアイテム)。腹話術という技法が評判になったのは、1936年アメリカのエドガー・バーゲンがラジオの公開放送で演じてからだと言われています。そして大体40年代から60年代前半にかけて腹話術は好評を博し、60年代後半には衰退しました。とすると、ミルズ支配人が手品と一緒に腹話術を人前で披露していた時期としてはこのくらいかもう少し後だと考えられます。やや絞り込めたか…?
 
Ⅲ.警察
当然サスペンスなので警察は登場するし、リリィ警部とウォーカーくんのBL的展開がわりと二次創作で見受けられます(めっちゃすき)。ここで警察の出て来るシーンとしても、引っかかる点が4つ。
 
1つ目に、殺人現場において警察だけが封鎖をして検証を行い、また被疑者に尋問する権力を行使できること。18世紀までは警察権力は市民抑圧の装置として懐疑的な扱いをされており(今でも僕はそう思っているが)、1829年スコットランド・ヤードが設置されてからが、イギリスにおける近代的警察像のはじまりといえます。近代の警察としての遵法精神や市民を管理する権力が確立されたのはいつからなのか、ということが重要です。とはいえ、ホームズの時代からすでに警察権力は十分機能していたとは考えられますが…。
 
2つ目に、現場検証において科学的鑑識が機能していること。リリィ警部が、詳しいことは調査中としながらも「毒物を使用した可能性」をその場で言及していることから、科学的鑑識に一定の権威が保障されている時期だということになります。なんか明治時代にはあった気がしなくもない。
 
3つ目に、ウォーカーくんがパトカーの音で飛び起きたシーン(かわいい)。さすがにパトカーが一般的に流通しはじめたのは20世紀に乗用車が出回ってからだろうし、なんなら日本でパトカーが配備されたのは戦後のことです。イギリスではどうでしょう。
 
4つ目に、ウォーカーくんがコレットに犯行手段を追究した際のアイテムとして、警察の制服が挙がっていること。イギリスにおいて一般巡査がいつごろから制服を導入し、また劇場が衣装として用いるほど一般的になったのはいつごろでしょう。
 
イギリスの警察事情について調べても要領を得ないので、イギリス政府の情報公開機関ページ"Freedom Of Infomation"(FOI request)に向かってメールを投げてみました。おそらくかのイギリス政府であれば、こんな些末な質問なんてスグに資料をまとめてお返事してくれるに違いありません。ちなみにこの英文が合っているという保証は一切ありません センター試験でも英語は7割もなかったので…。

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なにがJapanese web writerだ

 

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本当に返信が来た!なんか添付ファイルがありますね 開けてみましょうワクワク
 

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要約:俺たちの仕事でねーのでそれっぽいリンクやるから自分で見つけろキモオタク
 
 完全に失敗しました。そもそも、Freedom Of Infomatonなんてこういう質問をするページではないんだろうなといった感想です。こんなのでもご丁寧に返信してくださるイギリス様には足を向けて寝られません。
 
とはいえ、とても重大な手がかりに結びつきそうなページのリンクを教えてもらえたので、これを元に検証を続けていこうと思います。このリンク先は"THE NATIONAL ARCHIVES"、要するにイギリス政府のオンライン資料庫の警察に関する内容でした。こんなの日本から検索にかけても一切ヒットしないな…。
 
1,2. 近代的警察像の成立および科学的鑑識
Metropolitan Police Force(ロンドン警視庁スコットランド・ヤードとも)の成立を「最初の近代的警察権力(The first modern police force in England)」と紹介しているので、これは前述の通り1829年です。分裂していた警察機関を統合するにはここから第二次世界大戦までかかるのですが、いずれにせよ殺人現場において独占的に捜査できる権力としての警察構造は19世紀にはすでに成立しているとなります。そもそもシャーロック・ホームズにも警察は出てくるしそれほどアテになるわけでもなかった。
 
科学的鑑識に関してはなにをどう足掻いてもイギリスの警察での情報は得られなかったので、参考として法科学の歴史的経緯を紹介します。イギリスにおいて解剖学または医学の進歩がめざましいのは19世紀以降のことで、解剖する死体を供給するために貧乏な人や障害者を殺して医者に売るという、バークとヘア連続殺人事件なんてもので騒がれはじめます。また、「日本における犯罪鑑識科学の現状」によると、

犯罪科学を体系的にまとめて今日の犯罪鑑識科学の基礎を築いた人は,オーストリアの検事・予審判事で刑法学者ハンス・グロス(Hans Gross:1847~1915)である.グロスは,犯罪鑑識に科学的な理論を導入し,裁判に誤りが無いように合理性を持たせた.それらの科学的な理論をまとめ,現在,犯罪捜査の犯罪鑑識科学のバイブルといわれている"Handbuch fur Untersuchungsrichter als System der
Kriminalistik"("刑事犯罪予審判事必携の書")を1893年に書き上げた.

(中略)

実際にハンス・グロスの科学的な理論を犯罪捜査のための鑑定という分野で実践したのは,フランスのエドモン・ロカール(Edmond Locard: 1877~1966)である.
ロカールは,グロスが提唱した自然科学を犯罪捜査へ利用し,その実際の内容を"Traite de Criminalistique"(「犯罪科学全書」)にまとめた.

とあります。ロカールがフランスに警察技法研究所を設立したのが1910年のことであり、科学的鑑識が犯罪捜査において有用性を持つのも20世紀前半からであると考えられます。結構最近できたものなのだなといった感想ですが、これだけでは年代の特定にはいまいち弱い気もします。さすがに20世紀以降だろうという予測はついているので…。

3.パトカー
これは警察のページではなくて、車を紹介する記事にあったイギリスにおけるパトカーの歴史の話です。1900年頃にはまだ馬車によるパトカーで、1920年代になってようやく車の体をなしているパトカーが登場し始めます。が、

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こういうTin Lizzieと呼ばれる車種のやつで、作品に出てくるキキーっとブレーキ音を立てて何台も颯爽とやってくるパトカーかと考えると少し古すぎるように思われます。
 
こうした、点滅するランプとサイレンの鳴るスピーカーを備えたパトカーらしいパトカーの導入は、イギリスにおいても日本と同様に1950年代以降のことだそうです。
 
4.制服
当然といえば当然ですが、スコットランド・ヤードができた時点で制服は存在します。以上。
 
労力のわりに目新しい情報が一ッッッッ個も見当たらねえ!!!
 
Ⅳ.新聞記者・ゴシップ誌
ストーリーのタネとして、「殺人事件によって公演が有名となる」ことがありますが、ここでその媒体を果たしているのは、若い女性が「ほら、新聞」と二人で読んでいるように、新聞および紙メディアです。また、取り乱したモニカが劇場から出ようとした際に、ミルズ支配人が「門の外には新聞記者たちが大勢詰め掛けています。あなたの嫌いな、ゴシップ誌も大勢…。」と諭しているように、マスコミの主力はテレビカメラよりも新聞や雑誌が占めていたころです。また、噂が噂を呼んで観客がたくさん集まっているといったニュアンスなので、SNSおよびインターネットが利用されている時代ではありません。ちょっと強引すぎる気がしなくもないが。

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まず紙メディアの勃興については1868年に創刊されたイギリスの大衆雑誌「バニティ・フェア」を筆頭に、様々な雑誌が19世紀後半から既に存在しています。また新聞についても、1896年に本格的大衆紙としてイギリス全土に広がった「デーリー・メール」が先駆けです。やはり20世紀にはどちらも大衆を扇動する材料として、紙メディアが利用されています。また現在もタブロイドがそうであるように、その立場は変わっていません。
 
次に他のメディア媒体として、現在は最も主役を担っているであろうテレビのインフルエンス力のなさが見受けられます。仮にそうだとしたら、ミルズ支配人は「報道のテレビカメラも大勢」と言い換えるに違いありません。それほどまでに、文字と写真よりも映像の記録は強烈なインプレッションを与えます。さて、BBCは世界初のテレビ放送を開始したのが1936年のことで、戦争のために39年からは放送を中断し、46年に再開しています。そして、1953年のエリザベス2世の戴冠式というイベントを契機にイギリス国内のテレビ製造台数は増加し、1955年のBBC以外の放送局による商業放送をきっかけにテレビは影響力を持つようになりました。
 
しかし、さすがにテレビが流通しはじめる1960年代以前だと考えるよりも、テレビカメラはあってもまだ少数でまだまだ紙メディアがヘゲモニーを握っている、60年代かもう少し後まで とも取れるでしょう。
 
Ⅴ.日本との関係
実はコレットは日本人とのハーフだということが終盤明かされます。ウォーカーくんはイギリスからわざわざ日本まで渡航して、コレットの調査をしていました。また、シンシアさんとウォーカーくんが再会したときに「この一月、街はミリオン座の噂で持ちきりでした」と言っていることから、日本に行っていた期間とイギリスの街で調査をしていた期間を含めて、一ヶ月は経っていたことになります。
この文面を素直に受けとって、公演期間は一ヶ月だったとしても、イギリスから日本までこの短期間で往復するには飛行機しか手段が考えられません。バスでイギリスから日本とか逆沢木耕太郎じゃあるまいし、さすがに西洋から極東アジアまで鉄道でスムーズに行けるほど陸路が発達しているとも思えない。

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また、コレットは日本からイギリスの劇場に紹介状を携えてやってきたとなると、日本人の海外渡航自由化が成立したのは1964年のことであり、ここから徐々に一般人も海外に羽ばたくようになりました。さて、日本がはじめて国際線を運航したのは1953年ですが、この頃は行き先はアメリカのみであり、また政府要人などが利用していたものです。警察にコネがありそうなウォーカーくんとはいえ、このレベルは考えづらいでしょう。そして、ヨーロッパ諸国に乗り入れを始めのは1961年のことです。しかし、この頃はまだまだ航空券が高額だろうし、一介の探偵にすぎないウォーカーくん(かわいい)がやすやすと入手できるものとは思いがたいですが…。
 
仮にコレットはイギリスを放浪しており、またウォーカーくんが「彼女の故郷(日本)まで行って出生記録をあたるのには骨が折れましたが…。」と少々愚痴っているように、50年代後半にアメリカ経由で日本に渡ったか、日本人の渡航制限解除前に入国したか、というめちゃめちゃ大変な場合を考えても、ギリギリ矛盾はないような気はします。ただし、いずれにせよ60年代という節目は見逃せません。
 
 
③ カードイラスト・背景
 
「劇場サスペンス[新ヒロイン]」のSR琴葉(コレット)
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満面の笑みを浮かべて観客に手を振るコレットのイラスト。めちゃめちゃ光っているスポットライトが背景にあり、また歌詞にも「乾いたスポットライト」が出てきますが、これ自体は20世紀以降舞台における照明装置が重要となってからはずっと使われています。また、一緒に並んでいる人の装いも年代を特定できるほど鮮明なものでなく、特別なものでもありません。
 
「劇場サスペンス[スタア]」のSR桃子(モニカ)
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意地の悪い笑みで、恐らく寮の食堂的なスペースに立っているモニカのイラスト。背景には現代でも使われている蛍光灯と思わしきライトが見えます。電力については日本がそうであったように、イギリスでも戦前から供給されているもので、また蛍光灯が白熱灯よりも普及しはじめたのは戦時中のことです。そして、スチール(?)の足の机や椅子も同様に、20世紀には既存のものです。

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また、コレットはじめ女優たちの衣装やリリィ警部の着ているコートも、だいたいどの年代にもあるなあといった感じです。
 
また、カードを所持していないので画像を貼ることはできませんが、「劇場サスペンス[元大女優]」のSRこのみさん(シンシア)の背景には比較的カジュアルな正装の男女が観劇をしている様子、「劇場サスペンス[支配人]」のSSR瑞希(ミルズ)がカラー写真を持っている様子(ちなみにこれで人前で腹話術を披露しているのもわかる)、「劇場サスペンス[探偵]」のSSR紬(ウォーカー)で背景に高層ビルはないものの5~6階建てのビルや工場の煙突と思わしきものや電池式のペンライトがあります。これらはおおよそ、戦後から80年代以降にかけてよく見られるものだと考えられます。
 

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次に、THE@TER BOOST!の特別コミュに映る、劇場の屋根裏とされるイラストがあります。雑然とした印象で白熱灯やアンプが見えますが、左側の板に確かに「ワレモノ注意」のピクトグラムのステッカーがあります。

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ピクトグラムは日本が発祥といわれており、国際的にこれが広まったきっかけとは1964年の東京オリンピックで開発されてからです。さすがにイギリスにおける注意喚起ステッカーの歴史まで書いてある文献を探すことはできませんでしたが、恐らくこれは東京オリンピックよりも後であると考えて差し障りはないでしょう。
 

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また、楽曲「ラスト・アクトレス」のMVの背景には、1986年の「オペラ座の怪人風の意匠がありますが、さすがにこれがオペラ座の怪人をモチーフにしているとは断定できないし、またMVは現代のシアターで公演をしているという設定なので、「屋根裏の道化師」にはそもそも直接関係はありません。行数稼いだな。
 
 
④ 結論
 
以上より、日本の渡航制限が解除され、また東京オリンピックが開催された1964年より後で、またほぼイギリスの鉄道が電化されておらず、マスコミとしてまだ新聞や雑誌が有力で、出し物として腹話術が用いられた60年代まで
よって、「屋根裏の道化師」は1965年から69年までのイギリス(および日本)が舞台と考えられます。

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さ て 、1965年から69年とはいったい、日本とイギリスでは何があった年でしょうか?
この頃は、ちょうど大学紛争と政治運動の五年間です。学園紛争とベトナム反戦運動が重なり、この年代は戦後最大のイデオロギー闘争となりました。特に「1968年革命」とはよく言うものですね。
また同時期のイギリスでも、ベトナム連帯キャンペーンが打ち立てられフランスの五月革命が飛び火したりと、世界中の若者が運動をすることによって理念や思想を共有できる世代となりました。カルチェ・ラタンという単語を耳にしたことがある人も少なからずいると思います。
革命の寵児としてこの時代を生きながら、また悲しい殺人事件を捜査する探偵ウォーカーくん。そう考えてみると、このラスト・アクトレスという楽曲に関しても革命的な解釈をすることが可能になるのではないでしょうか。

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あ〜〜〜〜この時代に生まれたかったな〜〜〜〜〜〜!!!

糖質制限

 

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かっこいい

 

たまにしか投稿してないけど、寝る前にはてなブログのPV数をチラッと見るのがルーティーンになりつつある。投稿するもののPV数やRT数を目的とするのは仮言命法じみてて気分がよくないので、別にそういう意図はない。インターネットなんてただの自己完結する世界の満足感を得るためのツールでしかない。


それはそれとして、毎日なぜかコンスタントに2ケタは見られているのがとても気味が悪い。朝起きて確認する、だいたい8時頃にはいつも4~5は見られている。いや少ないほうなんだというのは自覚しているんだけど…。基本的に自分に向けられるものは悪意か蔑視だと思っているので、やはりどこかでヲチされて馬鹿にされているのか…と思うと気が滅入るばかり。このPV数は悪意のカウントでしかない。もう誰も見ないでください。


とはいえ、誰にも見られなきゃそれも価値がねえんだと思って再びブログパージにつながるので、自分の内心のさじ加減が調整できない。ひっじょーーに面倒くさい性格だなぁ。


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新型コロナウイルスに関して、どちらかというとおたくクンTwitterにおいて持てはやされる話題。それは病気そのものの感染状況よりもむしろ、それに関するトイレットペーパーやティッシュの不足といったデマや、必需品を転売する輩をナナメから見た情報であるように思われる。自分だけは大丈夫という確信をこの時代に持てているから、そう冷静なフリを出来ているだけなのかもしれない(これは自分にも当てはまる)。


TL構築に成功しているのか、デマそのものを目にすることは自分はほぼなくて、デマを打ち消す情報を見てはじめてそんなのあったんだと知る限り。晒されているツイートを見ても大体リプ欄は反論まみれだしこんなのに騙される人間がいるのか…?とかなり疑問に思いながら日々を送っていた。またTwitter程度の真偽も怪しい情報だけでこんなに混乱する世の中なのなら、もっと自分はネットだけで近代市民社会を破壊できるポテンシャルがあるのではとも思う。


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今朝母親が見せてきた、知り合いからのラインでなんとなく合点がいった気がした。内容は「○○市(自分の住む街の隣)にも患者が発生したらしいよ」「いま病院に行くのはやめておいたほうがいいらしい」といった感じ。前者はまったくの流言飛語だし、後者は極論を正当っぽくオブラートに包んだ表現でしかない。おたくクンの知らないインターネット利用者として、当然ネットに疎いオジサンオバサン世代(こういう人はTwitterなんかにいない)は存在する。思っているよりこの年代の方々はネットリテラシーに欠けている人が多い。そうした人たちはラインやメッセンジャーといったインターネット閉鎖空間で、“親切心”から真偽不明な情報を回してくれる、らしい。まるで昔のチェーンメールみたいだな…。


しかも大人のつきあいがあるので、それを否定するわけにもいかない。そんなバカなと流す人は適当に対処するが、それを真に受けて一緒にパニクる人も一定数いるだろう。これはTwitterのRT数なんかの拡散とは別種の強い力があるに違いないな…。畢竟一番恐ろしいのは、顔の見えない他人よりも身近な知り合いなのかもしれない。こういうのを見ていたら、たとえばもし戦争や大都市へ壊滅的な災害が起こったりしたらどういう事態に陥るのかなんとなく思い浮かぶ、ような気もする。とりあえず僕は言動不一致な変質者として自警団にでも処理されそうなので、完全に人気のないところへ逃げます。

 

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いまだにこういうの送ってくるオジサンとかいる



現実で人を嫌ったことはほとんど無い代わりに、インターネット上ではそこそこの頻度であるような気がする。かなり仲がよかった人を、夢から醒めるみたいにある日突然無理になったりする。あれは一体なにが原因なんだろう。積もり積もった嫌気成分がキャパオーバーしたとかそういうのなんだろうか。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いというのはその通りで、いざ嫌悪感をいだくとその人の趣味や尊敬する人まで距離を置きたくなるものになる。これは突然部屋にある物をぶっ壊したりまとめて捨てたりしたくなる衝動に似ているかもしれない。刃物や棒なんかで壁をぼっこぼこにしたり、なるべく高価なものを叩きつけて粉々にしたりするほどワクワクとした火がつくように、長い年月関わってきたりかなり親密になったりした仲ほど、脆くなってどうでもよくなるものになる。その場の衝動だけで生きてきているからこんな現状にあるのかもしれない。

 


amazarashi 『とどめを刺して』Music Video

こんな感じでぶっ壊していきたいよな