yktのブログ

アナルコ・アルカホリズム

骨壺

いまとなってはかなり前、寺のバイトで、500個ぐらいある骨壷をひたすらに納骨堂の棚に収納していく作業をしていた。一生ぶんの骨壷を触ったと思う。10畳くらいの小さな堂で仏壇を囲うように、壁一面びっしりとここ数ヶ月以内で死んだ人間の骨が入った壺が並んでいる光景は、思ったよりも重苦しくも愉快でもあった。実際遺族でも納骨堂には入れなくて、寺の従業員と坊主のみ許されるその空間に足を踏み入れられるだけでも、十分ワクワクするからである。

 

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身近な人の火葬や納骨をしたことがある人はすぐにわかると思うが、骨壺のなかにはぱりぱりとした真っ白いポテチみたいなものがギッシリと詰まっている。にわかにはそれが人骨であるとは信じがたい。しかし焼いて灰になればみなあんな姿になる。これはニヒルな諦観などではなく、どことない恐怖感だ。

 

私はいまは死にたいとは思わない。だが結局死んでポテチみたいな残りカスになるのであれば、なにか自分の魂が報われるような葬られかたがいい。たとえば、海にすり潰した骨を撒く散骨とかいうのがあるらしい。木の苗と一緒に埋まって養分となる話も聞いた。

 

ところで骨は成分として結構カルシウムやらカリウムが含まれているらしい。墓場の火の玉は、昔は土葬だったのでそのまま残っている骨のカリウムが軽く反応して火がついていたのではないかという説もある。それが本当ならば、花火と一緒に私の骨を混ぜてもらうことも可能なんじゃないだろうか。

 

でかい三尺玉に混ざる私の骨。花火とともに私の骨も打ち上げられてドカーンと気持ちよく爆発して、綺麗な火の粉と消えていったとしたら魂も報われることだろう。肉体は魂の牢獄だそうで、その根幹たる骨が雲散霧消したらたまんないだろうな。誰か私の喉仏とかを粉にして花火にしてください。

 

 

安達としまむらのアニメが良すぎて最近毎日つらい。古参ヅラしておくと、私は安達としまむらを刊行当初くらいからずっと推し続けているので、この気持ちは筆舌に尽くしがたい。グッズとかCDとかいっぱい求めちゃうで、通学のバス定期を買う資金がなくなってしまった。でもまあ通学と安達としまむらをテンビンにかけたらどちらに傾くかと考えたら答えは明白ですよね。

 

 

ちょうど12月の最初に東京に行くと思うので是非ともこれに行きたいですね。とてもよい。つらい。

 

 

大学でできた知り合いに「老子とか好きそう」と言われた。いや実際老荘思想についてはかなり共鳴するところがあるので、その通りだと頷くしかないのだが。「老子とか好きそう」って、オタクを揶揄するときに言うシリーズ(例・「すき家でチーズ牛丼食ってそう」とか)のなかでもかなりヘビーなやつだと思う。

 

老子の考え方として『小国寡民』が代表的に挙げられるが、これを現代に生きる人間関係に当てはめてみると、タダの狭い人間関係に収めようとする閉鎖的な猿山の大将のようなもんじゃないのだろうか。遠回しに社会に適応できていないわよと言うも同然かもしれない。

 

最近バイト先の雰囲気にもまったく馴染めなくてとても居心地の悪さを感じるし、どうにかして上手いことコミュニケーション的なアレを向上させたいわねと思いつつも、そこまでのキャパシティを持ちあわせていないのがとても難点である。なんとかならんかな。

 

大阪都構想が頓挫した。ザマーミロ。

 

 

追記 火の玉はカリウムではなくリンらしい